邱先生はここでは努力をすることで
用を終えたとみなされる老人たちにも
新しい発見が生まれると書かれています。
もともと私の家では、オヤジの死と、家の倒産は
起こりうる二大不祥事として日常の会話の中に
常々組み入れられており、年をとった順にこの世と
おさらばになるだろうことも
当然のこととして受け入れられてきた。
家の中でいつも私の死が刺身のツマにされているけれども、
実は世間も70歳を過ぎた人間を頭からそういう扱いにしていることが、
70歳の坂を越えるにつれて実感できるようになった。
ちょうどこの年齢は、心身ともに原価償却を完了した自覚もあるし、
医食同源を実感する時期でもあるし、また死亡適齢期に入れば、
いつ死んでも不思議ではないから、お金とか自分の事業に対しても、
どう決着をつけるか、結論を出す時期に来ているのである。
それが意外にも、しぜんに任せておいただけでは、
孔子のように、原則を踏みはずさないですみそうもない。
老年期をしあわせに送ろうと思ったら、若い時より自制心を持ち、
努力する必要があることを最近になって改めて痛感するようになった。
たとえば、おいしい果物を食べたかったら、
わざわざ自分で果物屋に出かけていって、
大枚を奮発して高価な果物を選んで
買ってくることをいとわないことである。
2018年03月13日
この記事へのコメント
コメントを書く