2018年08月14日

邱永漢先生のご自宅を目指して目黒へ移動

増上寺を散策した後は以前より念願であった
邱永漢先生のご自宅を訪問しようと思い目黒に移動しました。

訪問といってもお邪魔するわけではなく
もちろん外から見るだけですが住所がわからないので
目黒という事と本の少しの情報を頼りにチャレンジすることにしました。

この時は目黒川ぞいは桜の花が見ごろをちょっと過ぎた時分でしたが
花見の客さんで結構賑わっていました。
IMG_7889.jpg

目黒川から坂を上ってゆくとこの辺りは
豪邸街となっていて立派なお屋敷があります。
IMG_7905.jpg

さらに坂を上るとこちらはエジプトの大使館みたいです。
IMG_7908.jpg

その向かい側には美空ひばり記念館があります。
時間的には開館ちょっと前だったと思います。
庭はのぞくことが出来たのでみると
リンカーンでしょうか大きな車が見えました。
IMG_7906.jpg

邱先生のお宅はこの辺りだと思うのですが見つかりません。
手当たり次第というか周辺をグルグルと回ってみると
芦田淳さんの会社でしょうか建物があります。
IMG_7917.jpg

こちらは立派なマンションです。
芸能人が住んでいそうな感じです。
IMG_7919.jpg

いろいろと道を歩き回ったのですが
やっと先生のご自宅「邱公館」を発見しました。
IMG_7935.jpg

さすがに立派なお屋敷となっています。
玄関とは別の方向に車庫があるのですが
ロールスロイスが新型になり入らなくなったので
レクサスにされたと何かで読んだ気がします。

先生はすでにここにおられるわけではないのですが
以前はここを日本の拠点としてご活躍されていました。

主は不在となりましたが今は奥様が住まれているのでしょう。
先生の書斎とか書庫、厨房はどんな感じか興味はありますが
外から眺めるだけですが長年の念願が叶えられました、
それだけのことですがとっても幸せな気分となりました。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月06日

死ぬ権利を意識して生きる「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは、「死ぬ権利」を
はっきり表明しておきべきと、書かれています。

私に言わせると「死ぬ権利」は「生きる権利」と同じように、
尊重されるべき人権の一つである。
見事な生き方をするためには、見事な死に方が必要である。

いつ死ぬかということよりも、
それまでどう生きるかの方がずっと大切である。

力いっぱい生きて、もう生きる気力もなくなり、
生きる値打ちもないと自分でも思うようになったら、
いさぎよく死ぬことである。

その時になって、お前には「死ぬ権利」がないと言われたら、
いままで何のために生きてきたのかわからなくなってしまう。
だから、自分の生死は最後まで自分の手に
握りしめておりたいと私は思っている。

いま私たちが問題にしているのは、
もう死んでしまってもよい条件が揃ったときになっても
まだ生命を引き延ばす必要があるかどうかということである。

私自身は死ぬまで元気で働きたいと思っているが、
「字余りの人生」を送らなければならない時が来るかも知れない。

してみると、やっぱり人生という枠の中にきちんとおさまる
スケジュールを自分の判断できめるべきであって、
それをこえる部分は運を天に任せるよりほかない。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月05日

死ぬ権利「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは、「尊厳死」を選ぶ人は
日増しにふえていると書かれています。

人間の「生きる権利」が既に充分、
尊重されている先進国でも、人間の「死ぬ権利」は
まだ充分に認められているとは言えない。

人は皆、生きたいという本能を持っている。
できるだけ生きのびて、永遠に死なないですませたい
と思っている人もたくさんいる。だからこそ人類の歴史の上で
殺戮や幽閉が刑罰として成り立ってきたのである。

「死ぬ権利」は、文明国の、それも老齢化が
現実のものとなりつつある社会に生まれた新しい、
且つ切実な要求なのである。

幸か不幸か、日本もそういう条件を備えた文明国の
仲間入りをすることになってしまった。
年をとる立場にいる人だって、人に迷惑をかけてまで
生き続けたいと思う人も多いに違いない。

そういう人たちが延命のための治療を拒否して
自ら死を選びたいと思うことを「尊厳死」と呼んでいる。
ところが、日本では「死ぬ権利」を
人権と矛盾する行為と思い込んでいる人が多い。

その証拠に病気をしている本人の意志を確認しないで、
医師が患者を安楽死させようものなら、
たちまち殺人罪に問われたりするケースが再三ならず起こっている。

京都の田舎の病院長が、家族の了解を得て、
生きる苦しみから解放する処置をしたら、
裁判沙汰にまで発展してしまった。
日本の法律は遅れているなあ、と感じた人は多かったに違いない。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月04日

人権は尊重されるべき「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは、どんな未開発の国々でも、
人間の生きる権利は、やがて尊重されるようになることは
間違いない、と書かれています。

人権というのがしょっちゅう問題になっている。
言論の自由のある国では、政治の批判をしても、
国の最高指導者の批判をしても、
個人の意見を述べるだけだから、別に罪を犯したことにならない。

ところが、中国やミャンマーのような人権の
まだ確立していない国に行くと、
政府に都合の悪い意見を発表しただけで、
罪を犯したことにされてしまう。

それも殺人犯と似たような極刑を申し渡され、
労改という名の強制労働収容所に入れられたり、
鎖に手足をはめられたりするから、
言論の自由になれた人々は驚きを禁じ得ないと共に、
そういう国に生まれなくて本当によかったなあと
改めて胸をなでおろすことになる。

こうした非民主的な体制が今後、いつまでも続くわけではない、
民主分子がと呼ばれる連中が不当な扱いを受ける度に、
アメリカ政府のスポークスマンが公式に抗議を申し込んでいる。

その度に、中国側も、「我が国のやることに
他国は口出しをすべきでない」と反論しているが、
アメリカやその他の先進国の抗議に
全く圧力を感じていないわけではない。

それどころか、圧力を感ずればこそ「異見人士」に
極刑で臨む傾向が丸出しというところもあり、
アメリカの強硬な態度に抗しかねて、
裁判にかけて刑を宣告してから国外追放に処した例もあるが、
刑期を終えた連中をもう一度、
見せしめのために極刑に処する最近の例もある。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月03日

家族にたよれれば本望「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは、老齢化社会は、
福祉にたよるよりも、家族にたよらなければ
ならない社会である、と書かれています。

日本の家庭では核家族化がすすんでから、
子供たちが忙しさにまぎれて
なかなか親の家へ戻ってこなくなったが、
私たちは家族で助け合って生きていかないと
駄目だと思っているので、いまでも子供たちと
毎週のように顔を合わせている。

男の子は、自分たちの仕事を持っているし、
病気の親の面倒まで見てもらうことは期待できない。
親の面倒は、金銭的な面以外には期待できないし、
金銭的な面でも面倒を見てもらう必要がないと、
やさしくしてくれるかどうかだけが心の支えになる。

娘は息子たちに比べたら、
親に会いに帰って来る頻度も多いから
「老齢化社会で持つべきは娘だ」ということになる。

あとは、息子の嫁がどんな気立ての人であるかにかかっているが、
嫁が自分の娘よりももっとできた人だということになったら、
老齢期をしあわせに暮らせる素晴らしい星の下に
生まれた人と言ってよいだろう。

老齢化社会で大切なのは、
家族の紐帯を密接にすることである。

年をとる親の方はやがて子供たちに
厄介をかけることも勘定に入れて、
子供たちを教育する必要がある。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月13日

奥様を大切に「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは、将来面倒を見てもらうつもりなら、
ふだんから妻によくしておかなければならない、
と書かれています。

いまの日本は核家族化してしまったので、
結婚して所帯を持つと親と同居しなくなる。
子供が巣立つと、老人夫婦は二人っきりになる。

二人とも元気なうちはよいが、どちらかが患わって
病床に伏したりするようになると、
その面倒を見るだけでも大変なことになる。

一般に女は男より長生きだから、
私たちのように妻の方が何歳か若ければ、
当然、妻の方が長生きで、
こちらの死水を取ってくれることを期待する。

しかし、病気をしている良人の面倒を見てもらうためには、
ふだんから妻に良くしておかなければならない。
若い時はそんなことまで思い至らず、浮気はするし、
仕事で家はあけるし、気に入らないことがあれば、妻につらくあたる。
いやなら別れたってかまわないと大きな態度にでる。

人間は年をとると、だんだん依怙地になって自己主張ばかり強くなるから、
ちょっとのことでも気に障るようになる。
私も気に入らないことがあるとすぐに口に出すが、
家内は私が何か言うと、これまた必ずやりかえす。

そうは言っても、家内は根はやさしい女だから、
誰に対しても面倒見が良いし、だれからも慕われている。
もし私が亭主風を吹かせることが出来なくなって従順になったら、
親身になって世話をしてくれるかも知れないという一抹の期待は残っている。

しかし、それはあくまでも私が先に倒れたり、
先に死ぬことを前提とした話で、もし反対に彼女の方が
先に倒れるようなことになったら、いったいどうなるのだろうか。
どうしたって病院で息を引きとるようなみじめな思いはさせたくないと思っている。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月12日

老人ホームには行きたくない「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは、老人ホームの世話になりたくないとしたら、
面倒を見てくれる家族に恵まれているかどうかが
問題になる、と書かれています。

函館で特別養護老人ホームを経営している
フランス人の神父さんのインタビュー記事を読んでいたら、
 「お年寄りには気晴らしが必要なんですよ。
  生きがいという言葉は重すぎる。気晴らしでいいんです」
という発言にぶつかった。なるほど、現場の声だなと思った。

働き盛りの年齢なら、生き甲斐があるかどうかがキイ・ポイントになる。
だが、第一線から退いて仕事と関係がなくなり、
更に「字余りの人生」を老人ホームで暮らすようになったら、
一日一日が終着駅に至るまでの単調な生活になるから、
気晴らしになるようなことがあれば、
それだけで退屈さをしばし忘れることになるだろう。

歳は容赦なくとるから、そのうちに心身ともに衰えて、
自分で自分の世話もできない時が来ることも考えられる。

そうなってまで生きてはおりたくないというのがいまの心境だが、
生命力が理性の言うことをきかないとなると、
寝たっきり老人になってもまだ生きている可能性がある。

その場合、同居する家族に面倒を見てもらうか、
それとも有料老人ホームに入るか、どちらかを選ばなければならない。
老人ホームは姥捨山の現代版といってよいだろう。

そういうことにならないためには、寝たっきり老人や
呆け老人になる前にいさぎよく死んでしまうことである。
あとは家族に面倒を見てもらうほかない。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月11日

旅と食べ歩きも立派な趣味「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは、生きること自体に
興味を失わない限り、時間をもてあますことには
なりそうもないと、書かれています。

私などは大して趣味も道楽もない人間だが、
時間があれば旅行をしているか、読書をしている。
実はどちらも私の職業と関係があって、
講演や取材のための旅行も多いし、
原稿を書くための読書というのもある。

すると、それはすべてプロとしての行為ということになるが、
旅行にしても読書にしても、仕事とはまったく関係がなく、
ただ好きで、また面白がってやっている場合も多い。

それが結果として仕事に結びついてしまうこともあるが、
将来、仕事と関係がある部分がなくなってしまったとしても、
旅行と読書という時間潰しのやり方はそのまま残る。

現に私のベットの脇には旅行のガイドブックや
旅行記や食べ歩きの本が山と積まれている。
ずいぶん世界中を歩いたつもりでも、
まだまだ行っていないところが地図上でたくさん残っている。

地図を拡げて、あそこもまだ行っていない、
ここもまだ行っていないとというところを数えあげると、
一つずつ埋めていっても一生かかって全部埋められるかどうか。

だから、中国じゅうを歩き回るだけでも、
まだ使っていない時間では足りそうにないから、
残っている時間をもてあますことにはなりそうもない。

読む本に至っては、こちらが読むスピードよりも、
次から次へと新しく出る本のほうがずっと多いのだから、
読む本がなくなる心配もない。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月10日

忙しい間に趣味をはじめる「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは、趣味道楽というものは
仕事に追いまくられているあいだに、
わずかな時間を見つけて割り込ませる
必要がある、と書かれています。

趣味とか道楽とかいう以上、ほかに本職があっての遊びだが、
遊びに熱中するあまり、それが本職になってしまう人もある。
茶道、書道、絵画、陶芸、囲碁、将棋、骨董、蒐集、俳句、音楽など
家の中にいても結構楽しめることから、
野外スポーツ、旅行、カメラ、登山、ドライブ、飛行機の操縦など、
身体が丈夫でないとつとまらないものもある。

人がどういうことに趣味を持ち、
何を趣味とするかはそれぞれの好みによるものだから、
どんな趣味を持とうと人の勝手だが、趣味を持たない人から見たら、
「おかしなことに熱中する人が多いなあ」ということになる。

趣味とか道楽とかいうのは、
世間やお金のためにはならなくとも、自分の楽しみになり、
自分の満足が得られれば良い性質のものである。
そういう行為が私たちの楽しみになり、
自分の満足が得られればよい性質のものである。

そういう行為が私たちの生活の中で占める地位は
年と共にますます大きくなっている。
また、そういう中から他人が趣味道楽にしていることを
職業にする人も年々ふえている。

プロと呼ばれる一群の人々は、役にも立たないことを
本職にするものだから、社会への貢献度は低いが、
スターとしての人気や懸賞金にありつけるため、
収入もバカにならないし、若者たちのあこがれの的になる。

社会が豊かになるほどそういうプロが生存できる空間がふえるので、
いままでにきいたこともないような肩書の職が次々と現れる。

趣味道楽は本来、時間潰しのためにあるものだから、
時間があまってほかにやることのない人にとってもってこいの手段である。
しかし、そういった手段をすべて仕事を失ってから探すのでは遅すぎる。
若いうちにそういうものを見つけて、時間をそれに使っておれば、
仕事がなくなったあと、趣味道楽の時間を延長して使うことが出来るのである。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月09日

まだ若いうちに見つける趣味道楽「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは、人生の余白を埋めるためには、
体力がなくてもできるような趣味や道楽を
できることなら現役時代から馴染んでおいたほうが
いいのではないか、と書かれています。

年をとると、仕事から解放される人が多い。
仕事から解放されたら、やりたいと思っていた
宿題みたいなもののある人にとっては、またとないチャンスだが、

仕事一筋に生きてきた人にとっては、
職場から追放されたようなもので、
仕事を失った上に収入の道さえとざされて、
大変なショックを受けてしまう。

そうはいっても、定年が来ることは
会社に入った時からわかっていたことで、
サラリーマン稼業には避けられないことである。

だから、定年になるまで会社勤めをするかどうかは、
四十歳になった時点で、自分で判断して決めるべきことで、
そこでそのまま続けると決めれば、
定年が来ることを覚悟をしなければならない。

仕事場から追い出された人間は何をすればよいかというと、
昔なら庭いじりが常識だった。なるほど庭いじりは
年寄りの趣味道楽の域に入るかもしれないが、
それが出来るためには庭のあることが条件になる。

いまのようにマンション住まいがふえれば、
どこか郊外に農園でも借りて、そこに通うよりほかないだろう。
でなければ、都会に住むのをやめて農村にでも移住するよりほかないだろう。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月23日

身なりも履歴書のキモノ「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは、どんな服装をするかは
年をとるほど気を使う必要のある大切なことである
と書かれています。

「男は外見より中身だ」というけれど、中身は外からはわからない。
本当のことをいうと、男だって中身は大したことがないのが大部分である。
ましてや年をとってくると、もともと大したことないのが
もっと崩れかかってくるから、せめて包装でごまかすよりほかない。

かといって、派手なカッコをすれば若く見えるというわけでもないから、
年相応に老けて見えるのはかまわないが、何はともあれ、
上品に見える工夫をしなければならない。

これが予想外に難しい。私たちがその人を判断する第一の材料は、
その人の人相も含めて、その人が醸しだす雰囲気であり、
第二の材料はその人の身なりである。
身なりがその人の評価をする重要な基準になる以上、
身なりをちゃらんぽらんにしておくわけにはいかないのである。

服装は、気をつけていれば、すぐに改められると思うかもしれない。
その点、人の顔や人相は長い時間をかけて形づくられたものだから、
顔を見れば、その人となりや履歴のおおよその見当がつく。

「男の顔は履歴書」というように、口でいくらうまいことをいっても、
顔に描いてあることは簡単には消せないから、
顔を判断の拠りどころにするのが一番間違いない。

しかし、顔が履歴書であるように、身なりも履歴書のキモノである。
どんな履歴の人がどんな身なりをするかはだいたい決まっている。
人の着ている服を見て、他人がその人の素性の大体の見当をつけるのも、
実は素性によって着るものがきまっていて、外見から中身を当てるのは、
当たらずといえども遠からず、だからである。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月22日

老いてもお洒落にこだわる「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは、着ているものに
バランスが取れていないと、そわそわして落ち着かなく
なってしまうものであると書かれています。

同窓会に行って学生時代のクラスメイトと一緒になると、
友人たちの方が私よりずっと老け込んで見える。
どこが違うかというと、まず服の着方からして違う。

友人たちはもう第一線から退いていて
毎日が日曜日みたいな生活をおくっているせいもあるが、
着ている服にほとんど神経を使わない。
定年前に来ていたのではないかという洋服を
そのまま無造作に着ている人もいれば、
ワイシャツやネクタイがよれよれの人もいる。

もうどうせ偉い人ちあうわけでもないし、
仕事をとりに行くわけでもないから、
人が自分のことをどう思おうが、大して頓着しないのである。

それに比べると、私などはネクタイと服の取り合わせはもとよりのこと、
靴下の色からハンカチのデザインまで気にしている。

この前、あの人に会った時はどんな服を着ていたか、
ネクタイはどんなものを締めていたかまで考えながら、
身につけるものを選ぶ。大してお洒落なほうだとは思っていないが。
自分をだらしなく見せるような服装はしないようにいつも心がけている。

いかにも若づくりというのもかっこがつかないが、
あまり老け込んで見えない配慮は必要である。
そのためには年相応ではあるが、元気に見えるし、
着ているものが良く似合っているなあという
色彩やスタイルに気をつける必要がある。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月21日

年をとると心がけが必要「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは、年をとると
同じことをくりかえしたり
自慢話をするようになると書かれています。

60歳から以後は、放置しておけば
ゴミ溜め行き寸前ということだから、
社会からも、また家族からも、粗大ごみ扱いされない
ための工夫が必要だということになる。

私は、自分がまだ年をとる前から
老人たちとつきあっていて、その欠点を観察してきた。
たとえば、、年をとると、人間はどうしてもくどくなる。

頭の中のテープレコーダーがこわれて
クルクルと同じところを空回りするようになるせいか、
同じ話を二回でも三回でもくりかえすようになる。

こういうのを老化現象というんだな。
将来もし自分が年をとったら、
少なくとも同じ時に同じ人を相手に同じ話を
繰り返さないように気をつけなくちゃ、
と私は自分を戒めてかかった。

似たような老化現象はほかにもたくさんある。
やたらに自慢話をしないとか、
孫の話をしないとか、他人に恩を着せないとか、
人のせいにしないとか、年をとるとどうしても動作が鈍くなるから、
なるべく姿勢をよくしてちゃんと歩くようにするとか、
とにかく老人っぽく見えないように心がけている。

それでも寄る年波にはかなわないが、
心がけているのと、全く心がけないのでは、
年のとり方に格段の差が生じてくることも間違いない。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月20日

老人に対する誉め言葉は少ない「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは、年をとっていいことよりも
悪いことが多いと書かれています。

年功序列というのがあって、サラリーは年と共に上がるので、
年寄りは若い人より収入が多いのが日本では常識になっている。
また、組織の中における地位も、年々、昇進することになっている。

従って、それがどこまでも続くとなると、
老人の支配する社会構造ができあがってしまう。
しかし、それは年をとっても老人の能力が衰えないことが前提であって、
ある年齢を超えると、心身共に能力の低下が起こる。

そういう老人にいつまでも頑張られてはたまらないから、
一定の年齢に達成すると退職する規定がつくられている。

そうした定年が体力の衰えとほぼ見合っていれば、
「まあ、仕方がないなあ」とあきらめがついてあまり問題がないが、
定年後もまだまだ元気で、若い者のあいだにまじって働いても
少しもそん色がないとなると、
定年後の人生をどう生きるかという新しい問題に直面する。

ところが、60歳の退職の時は元気だった人も、
65歳、70歳、さらにそれから上になると、
衰えが激しくなっていく。

年のとり方には個人差があるけれども、
年をとることによってよくなることよりも、
悪くなることのほうがずっと多い。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月19日

人生の空白を埋めるには「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは、お金を使うことが
あなたの人生の余白を刺激的に埋めてくれる
と書かれています。

いまの相続税は「資産は一代限り」という原則の上に立って
組み立てられたものであるから、お金を使い残すと、
家族の手に渡る前に税務署にもっていかれてしまう。

遺産を残しても大して意味がないと思う人は、
自分の持っているお金を生きているうちに
気前よく使いはたして死ぬにはどうしたらよいかに頭をつかうべきであろう。

「あとは死を待つだけ」と思われている人は、
人生に大きな余白ができたようなものだから、
余白を上手に埋めるための努力をすべきだと思う。

この余白うめというのが、そう簡単ではない。
たいていに人は、年をとるとお金があってもお金をケチる。
時間があっても億劫がってなかなか出掛けようとしない。

着る服がいくらでもあるのに、毎日、同じ服を着続けている。
新しい素材を買ってきて昨日と違う料理をつくればいいのに、
冷蔵庫に残っている食べ物を何日でも食べ続ける。

面倒くさがって同じことをくりかえすのが年寄りのおちいりがちな習性だが、
それを意識的にやめなければ、毎日が新しい日にはならないのである。
そのためには、お金をためこんでしまっては駄目で、
毎日、努力してお金を使わなければならない。

わずかなお金しかもっていない人なら
自分でスーパーに出かけていって自分の気に入った
買い物をしてくるだけでも良い。
お金を使うことがあなたの人生の余白を埋めてくれるのである。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月16日

努力してお金を使いなさい「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは、残りの人生がいくらもなくなった人は、
お金を増やす必要がないのだから、
持っているお金をどううまく処理するか
ということからまず着手すべきであろう、と書かれています。

では実業界の第一線から退いたらどうなるのであろうか。
いまでも私は町を端から端まで歩いたり、
またデパートやスーパーの中を上から下まで歩いたら、
この商売とこの商売をやればいいとか、
この商売はやめるべきだという考えが次から次へと浮かんでくる。

上海や北京や成都に行くと、宝の山にまぎれ込んだような気持になる。
だからもうお金儲けのアイデアから見離されてしまったわけではないが、
残念なことにお金をふやしても役に立たないことだけははっきりしてしまった。

いきたいところに行き、食べたいものを食べ、
人に贈り物をしたかったら贈り物をするくらいのことはいまでもできる。
すると新しい仕事をやって、それが成就する楽しみはあるとしても、
お金が儲かってよかったという喜びは湧いてこない。

ならば、リスクがあって、お金の儲かる仕事は、
もっと大きな財産をほしがっている若い人や自分の息子たちに任せて、
自分はお金にならないかもしれないが、
成就感のある仕事だけに従事したほうがいいのではないか、
とだんだん思うようになってきた。

よく功なり名を遂げた人が社会事業に力を入れたりするのをみかけるが、
どんな仕事をすれば満足できるかは人によって違う。

私は国の経済発展に役立ったり、
人材の養成に手を貸したりすることには関心があるから、
いずれそういう方面の仕事に手を染めることになろう。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月15日

組織人の方が職業的な生命は短い「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは年をとってくると
周りから厄介なこととはかかわらないことを、
アドバイスされるようになったと書かれています。

創業者がまだ健在な会社でさえも、
企業の活力を維持するためには年寄りには
どいてもらおうという雰囲気が微妙に醸成される。

敏感な経営者は、たとえ自分が築いた企業であっても、
「もう自分の出番はなくなったなあ」という気持ちになってしまう。

本田宗一郎さんなどは、だれに催促されたわけでもないのに、
さっさと後進に社長の椅子を明け渡し、自分は銀座にオフィスを構えて、
そこに出勤するようになった。

その頃の本田さんを私は知っているが、
まだまだ元気はつらつとしていた。それでも自ら退いたのは、
チームそのものが自分を老人扱いするようになったことを
自分自身で敏感に感じとったからに違いない。

本田さんがやめたら、パートナーであった藤沢武夫さんまで
一緒に辞めてしまったので、
引き際のよさをのちのちまで讃えられているが
これは創業者であるかどうかという問題よりも、
世間の動きに対する感度の問題と見たほうが正しいだろう。

70歳の坂は越えにくいといったが、70歳を越えてみると、
体力は知力の衰えも激しくなる。
何よりも世間の年寄り扱いが目立ってくる。
外部の人だけではなく、部下たちまで、
私の死ぬときのを数えるようになるのである。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月14日

第一線からはじき出される運命「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは実業界ではチームワークが
常識になっているせいか、たとえオーナーであっても、
老いぼれた指揮官をチームそのものが
受け付けようとしない傾向がつよいと書かれています。

自分が年をとってやっと気づいたことだが、
人は一定の年齢に達すると、まだ鬼籍に入ってもいないのに、
世間が早くもそうした余命いくばくもない人間として
扱いはじめるということである。

私は今でもジャーナリズムの第一線にいるし、
さいわい仕事も山ほど抱えているので、
時代遅れの人としては扱われてはいない。

また、企業のオーナーとしても新しい仕事を手がけるだけの
企画力と資金力を備えているので、
相談役とか元社長のような扱いは受けていないが、
それでもだんだんそういう人たちと似たような扱いを受けるようになる。

世間には年齢に対する平均的な見解があって、
例外をあまり認めようとしないのである。

私は、人生の長距離走者として途中でへたばらない方法は、
定年になっても仕事をやめないことで、
やめたとしてももう一度再スタートすることをすすめている。

自分自身も、いくつになっても冒険心を忘れず、
失敗を恐れず、好奇心を持続することをモットーとしてきた。

ところが、60代も半ばになると、同じ年代の人たちが
だんだんと姿を消してしまう。死んでしまった人もいるが、
大半はまだ死んだわけではないのであるが・・・。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月13日

努力して新しい発見を「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは努力をすることで
用を終えたとみなされる老人たちにも
新しい発見が生まれると書かれています。

もともと私の家では、オヤジの死と、家の倒産は
起こりうる二大不祥事として日常の会話の中に
常々組み入れられており、年をとった順にこの世と
おさらばになるだろうことも
当然のこととして受け入れられてきた。

家の中でいつも私の死が刺身のツマにされているけれども、
実は世間も70歳を過ぎた人間を頭からそういう扱いにしていることが、
70歳の坂を越えるにつれて実感できるようになった。

ちょうどこの年齢は、心身ともに原価償却を完了した自覚もあるし、
医食同源を実感する時期でもあるし、また死亡適齢期に入れば、
いつ死んでも不思議ではないから、お金とか自分の事業に対しても、
どう決着をつけるか、結論を出す時期に来ているのである。

それが意外にも、しぜんに任せておいただけでは、
孔子のように、原則を踏みはずさないですみそうもない。
老年期をしあわせに送ろうと思ったら、若い時より自制心を持ち、
努力する必要があることを最近になって改めて痛感するようになった。

たとえば、おいしい果物を食べたかったら、
わざわざ自分で果物屋に出かけていって、
大枚を奮発して高価な果物を選んで
買ってくることをいとわないことである。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月12日

若い時より自制心をもつこと「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは70歳になると
たいていの相手が、私が死ぬことを
勘定に入れるようになったと書かれています。

時間をもてあます余生にならないように、
自分で去就のきめられる仕事を見つけなさい
というのが私の意見である。

その点、私のように自由業だとか、
会社のオーナーをつとめているようなら、
いつまでも自分がやりたいだけ続けることができる。

お金の問題よりも、仕事から離れると頭を悩ませる
チャンスが少なくなるから、ぼけるのが早いぞ
という理由からだが、それでもやっぱり70歳になると、
自分より世間のほうがこちらの死期を
指折り数えるようになるのである。

ある時、私が代表をしている会社の不動産を某スーパーに
賃貸する商談が持ち上がったことがあった。
私は、できれば10年か15年くらいの契約期間にして、
二年ごとに一定率の賃上げをする。

ただし、猛烈なインフレになることもあれば、
逆にデフレになることもあるから、
その場合は物価と周辺の家賃の動向と社会的常識によって
上へでも下へでも調整することができるようにしようと提案した。

ところが、相手は40年間、一定比率の賃上げに釘づけにすると主張して譲らない。
私は、「いままでいろんなところで家主をつとめてきましたが、
店子さんとただの一回もトラブったことはありませんよ」と反論した。

そうしたら、相手はすかさず、
「センセイが生きておれば、私たちも心配しませんよ。
私たちはそのあとのことを心配しているのです」と逆襲された。

このように、この年になって交渉事に臨むと、
たいていの相手が、こちらが途中で死ぬことを勘定に入れて
条件を出してくることがやたら実感されるようになったのである。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする