2017年06月29日

選挙落選が厄落とし「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは、
選挙に落選したことで、どうやって
ピンチから逃れるかに夢中になった
と書かれています。

一旦、思い立つとやらずにはおられない質だから、
私は自分が参議院全国区に立候補する意思表明をした。
日本国籍もない人間が日本籍に転入して
選挙に出るようなことは前代未聞のことだから、
たちまちジャーナリズムの話題になった。

しかし、選挙のプロの評論家たちの反応は冷淡で、
恐らく十万票とれたらいい方だろうと軽く突き放された。

先ず活字出身者の候補は選挙に弱いこと、
いくら知名度があっても外国人には票を入れる人が少ないこと。
私自身はそれをまともに信じなかったから、立候補したのだが、
結果は向こうの方が正しいことを証明することになった。

二つ目は選挙をしてみてはじめてわかったことであるが、
選挙ときいただけで積極的に協力してくれる人と、
そっぽを向いてしまう人に、友人たちがはっきり分かれてしまった。

選挙アレルギーがこんなに強いとは私にも予想がつかなかったが、
本当に頼りになる友達とそうでない者の区別がつくようになり、
その後の人生を送るにあたって大変役に立った。

男の厄年は二十五歳、四十二歳、六十一歳というが、
私の場合は四十二歳と五十五歳であったというほかない。
なんで五十五歳かというと、定年が六十歳とすれば、
少々感度のよい人間なら、五年も前に
手応えがあるのが普通だからであろう。
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2017年06月28日

五十五歳は老齢化時代の男の厄年「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは、
五十五歳になり、もう若くないんだと
思った途端に心に迷いが生じたと書かれています。

年齢についてはじめて意識をしたのは五十五歳の時だった。
それまではただ馬車馬のように働いたし、いつも書生気分だった。
書生気分とは、学生時代と同じような心理をずっと持続している事である。

私のように台湾の高等学校から東京へ出てきた者には特に、
「僕は東大生なんだ」という意識があった。
自分はエリートの学校に行っているのだという意識があったし、
学問に励んで広く知識を吸収し、敬虔に先生の言うことに
耳を傾けなければ、と自分の気持ちが引き締まるのを覚えた。

社会に出てからも、私のそうした気持ちは少しも変わらなかった。
私は東大へ来るたびに昔を懐かしがって、
わざわざ車を降りてお茶の水から本郷三丁目を徒歩で正門前まで歩いた。
すると、角帽をかぶって通った昔と同じ気分になって、
いまでも大学に通っているような錯覚を起こした。

ふと自分の着ている物を見ると、
もう学生服でもないし、頭には角帽なんかかぶっていない。
香港に住んでいた私は比較的早く金運に恵まれ、
イギリス仕立てのバリッとしたセビロを身につけていた。
それでも気分は学生時代のままだった。

やがて香港から東京へ戻って住むようになり、
直木賞をもらって少しばかり名を知られる作家になった。
のちにはロールス・ロイスに乗るようにもなった。
しかし、それでも、私の書生気分は一向に抜けなかった。
というより、それが私の一貫した人生態度であった。

人生は好奇心が強くて、知識欲があって、
探求心が旺盛なのが当たり前だと私は思い続けていた。
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2017年06月27日

殿様気分のゴルフはつまらない「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは、
鎮守の森であぐらをかいている
わけにはいかないと思ったと書かれています。

ゴルフをやらない人がゴルフ場をつくるのは
前代未聞のことである。何が面白くて
そんなことをやるのかときかれたら、
ゴルフ場のことは何も知らず、
未知のことに挑戦することに興味を持っているから、
と答えるよりほかないだろう。

私はやったことのあることに対しては
あまり心を動かされないが、
自分がいままでにやったことのないことを
やってみたいと思ったときは、心も動くし、
どんな困難にあっても何とかそれを克服しようとして努力をする。

年をとったから若い時より老練になったといっても、
今までにやったことのないことに挑戦するから、
ズブのシロウトであり、新人である。

ゴルフ場建設のための予算を組むにあたっても、
私はコースの設計費、建設費、クラブ・ハウスの
建設費用を計上すればよいと簡単に考えていたが、
実際にやってみると、あれやこれやで、
予算をオーバーした分だけで20億円ほどかかってしまった。

それでも経営努力で経営収支は
何とか辻褄のあうところまでやりくりをし、
資金ぐりをして利息の不足分は補いをつけた。

自分がゴルフをするために、自分用のゴルフ場まで
つくったということになったら、
男の虚栄心は一通り充たしたことになる。

コースに出る時は運転手が日除けの傘をさしてくれるし、
ティー・アップは秘書がやってくれる。
こんな若い部下に包囲されて、世間から隔離されて、
殿様気分を味わうことにどれほどの快感が伴うものだろうか。

「これではいけない。このままではいけない」と
ゴルフ場のオーナーになった途端に、私は思うようになった。
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2017年06月26日

ゴルフ場のオーナーがつとまらないわけ「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは、
ゴルフ場を作ることになった
いきさつについて書かれています。

若い頃、私はゴルフをやったことがなかった。
別にゴルフをやる人に敵意を持っていたわけではなかった。
ほかにやりたいことがたくさんあって、
ゴルフに使うだけの時間がなかっただけのことである。

とりわけ自分のような職業は人と同じことを
やっていては駄目だという意識があった。
物書きにとっては異常体験が財産で、
馴れ合いが一番禁物だと思ったので、
文士の集まりにもほとんど顔を出さなかったし、
趣味もなるべく同じでないように、と心がけた。

ならば、職業の違う人とゴルフに行けばよさそうなものであるが、
それもやらなかった。本田宗一郎さんに何回も誘われたが、
「ゴルフはやりませんので」とお断りした。
本田さんにはとても興味があったが、本田さんの人となりを知るためなら、
直接会って話を聞けばよかったし、
著作や座談会の記事を読んでも理解することが出来た。

その私が晩年に近づいてから急にゴルフ場をつくる気を起こしたのは。
たまたまゴルフ場をつくれるだけの土地を持っていたからであった。

私は長い間、台湾の中華民国政府と折り合いが悪く、
二十何年も香港、日本で亡命生活を送ったが、
国民政府から、帰って来てくれないかと使者が来た。
それも46年の秋から47年の春にかけて3回、使者があった。
 
47年4月2日、私は百人以上の新聞記者や
テレビ記者に取り囲まれて台北入りをした。
いま台北飛行場のある桃園のインターチェンジから
7,8分のところに30万坪ばかりの土地を買った。

私はそのまま18年も放置しておいた。
そうしたら、その間に台湾の経済は大発展し、
ゴルフ人口もふえ、私が台湾に帰る度に、
ゴルフ場をつくりませんかと再三ならず勧誘を受けた。
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2017年06月16日

はじめからやり直す大切さ「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは
日常のくりかえしではマンネリになるので
次なる新しい発見と新しい体験のために
折角出来上がったものを捨てなければならなくなる。
それが自分に忠実な生き方ということになると書かれています。

二十代のはじめ、まだ台湾で小さな商業銀行の
調査課長をつとめていた頃、私は戦後、
大陸から乗り込んできた国民政府の暴政に義憤を感じ、
その排除をするための革命運動に身を挺することを考えた。

だから、自腹を切って香港にとび、
香港から国連事務局に台湾で国民投票を実施するよう
呼びかけた請願書を出した。

私の書いた請願書は事務総長の手元に届き、
AP,UPなどを通じて全世界に報道された。

だれが主犯かわからなかっただけのことで、
わかって逮捕されたら生命はなかった。
私は飛行機に乗って香港に亡命し、
すんでのところを助かった。

あの時は、この先どうやって生きていったらよいのか
全くあてがなかった。
そういう全くあてのないところから
私の人生がはじまったので、何のあてのないまま古い職業を捨てても、
道は開けていくものだという自信を持つようになった。

香港のような異国にたった一人おっぽり出されても、
やがてメシも食えるようになったし、
上流階級並みの生活もできるようになったのだから、
あとどうなるかという心配より、
自分が一番大事にしてきたものを捨てられるかどうかの方が肝心に思える。

自分でも「私は七十七歳で死にたい」と本に書いたくらいだから、
余命はあといくばくも残っていないが、
いくら年をとったからと言って、
マンネリで残りの人生を埋め尽してしまうわけにはいかない。

とすると、私はまたしても、
いま一番大事にしている物をかなぐり捨てて、
もう一度、はじめからやりなおさなければ
ならないところまで来てしまった。
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2017年06月15日

自分の一番大切にしている物を捨てる「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは
自分のいままでのライフ・スタイルを一新しようという時は、
これだけは自分のものとして大事にとっておこうと思うものを
真先に捨てなけばならないと書かれています。

日常生活のくりかえしをやっていると、すぐにあきがくる。
あきがくると退屈する。世の中に生きて、
退屈を覚えるくらい情けないことはない。

いっそ死んでしまいたい。
そう思ったことが私にも何回かある。

それでも死にもしないで生きのびたのは、
マンネリになってきたなあ、と自覚し始めたら、
自分の生活に終止符を打って、新しいライフ・スタイルに
変えることを躊躇しなかったからである。

私は自分がマンネリを痛感する度に職業を変えた。
職業も一生物と考えられているから、
一旦、就職をすると定年まで職業を変えない人が多い。

女房も代えず、職も代えず、一生を押し通す人は
世の中にたくさんいるが、そういう人だって
ストレスはたまることだろう。

私の場合はマンネリが激しくなり、
それがストレスになると、
自分がいままでやってきた仕事をなげうった。

本当のところ、職業や仕事は私にとって
最も大切なものであるから、
自分の最も大切に物を犠牲にすることになる。
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2017年06月14日

ハンディをプラスに変える生き方「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは
長い人生を上手に生きるには
感動を失わないような工夫が必要と書かれています。

強運でなければ、生存競争から脱落してしまうから、
強運であることは必要なことであるが、
そうかと言って、こればかりはいくら努力しても
手に入るものではない。

人間にできることと言えば、
悲運の時に如何にしてそれに耐え、
困難を克服する努力をすることであろう。

私は自分のハンディを克服するために
懸命の努力をしなければならなかった。

結果から見ると、そうした努力をした分が
私にとってプラスに働いたから、
人生のマイナス面は決してその人にとって
いつまでもマイナスに働くものではないと信じている。

男と女が一緒に生活する暮らす場合でも
日常生活のくりかえしの中にあっても、
ちゃんと楽しいかどうか、あるいはガマンができるかどうか、
がこれから人々が同じ屋根の下で
生活を共にするかを決定する条件になる。

しかし、日常生活のくりかえしになると、
鮮度がドンドンおちていくから、
若いカップルでも感動がなくなってしまうし、
相手の欠点ばかり目立ってくる。

また、平均寿命の延長によって
人生はやたら長くなったというのに、
新しい発見や体験のチャンスは逆にうすれてしまった。

これでは生きている感激を失ってしまうから、
常に新しい発見と体験のために挑戦するか、
日常生活のくりかえしの中に新しい発見をするか、
自分なりに工夫しなければならない。
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2017年06月13日

日常生活のくりかえしより新しい発見「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生はここでは、
人生、強運であることが
大切なことであると書かれています。

人生には新しい発見や新しい経験を積むチャンスと、
日常生活のくりかえしという二つの側面がある。

生まれてから、一人前に成長するまでの間は、
新しい発見と新しい体験の連続だから、
好奇心さえ持っておれば、退屈をしないですむ。

また同時代を生きる人間は同じ環境におかれているわけだから、
共通の時代感覚を持っている筈だが、同じ時代を生きながら、
平々凡々の人生を送る人もあれば、波乱万丈の一生を送る人もある。

どちらがしあわせな人生かは、本人が自覚するものであるから、
他人があれこれ口を出すことではないだろう。
従ってどちらを選ぶかは本人のやることであり、
その人のおかれた環境や本人の感受性や
人生態度によって自ら決まるものであろう。

私は父の家を継ぎ、邱という姓で台湾人として育てられたので、
台湾人が受ける差別待遇は一通り体験したし、
そのハンディを背負ったまま、激しい生存競争を生き抜き、
最高学府言われた東大を卒業させてもらったし、
のちには直木賞をもらったりして、
ふつうの日本人でもなかなかめぐりあえない幸運にもめぐまれた。

そうした私の過去の経歴を見ると、
自分にもし何かの実績があったとすれば、
それは自分のハンディに負けなかったからだし、
ハンディの大きさに比例するものだと思っている。
もちろん、幸運に支えられた面はいくらでもある。

小学六年のときに教育熱心な蔵原先生に代わらなかったら、
今日の私はいなかったかも知れない。
先生は、うちの親に子供を台北高等学校の尋常科を
受験するようにすすめたくれたので、
台北高校、東大と進学することが出来た。

東京大空襲で、私が下宿していた東大正門前一帯が焼け野ケ原になった。
大学のクラスメイトが救いの手を差しのべてくれた。
一人が岡山の人で、もう一人が広島の人であった。

私は広島を避けて岡山を選んだ。
もしあの時、私が広島を選んでいたとしたら、
私は原爆にドカンとやられていたに違いない。
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2017年06月12日

まえがき「鮮度のある人生」邱永漢

邱先生の鮮度のある人生を
これから勉強してゆきたいと思います。

この本は1994年11月から
28回にわたて連載されたもので
いまから20年以上前の本となります。

邱先生は本の前書き部分で
自分の人生もかなり草臥れて
あえて鮮度を強調しなければならないほど
老齢化の道をたどっている。

どんなフレッシュな魚や野菜でも
時間がたてば、しなびて、枯れて、
よれよれになってしまう。
人間であってもその例外ではないと書かれています。

60歳の人にとって60歳ははじめてなる60歳だし、
同様に70歳もはじめて経験する70歳である。
新鮮さを感ずるためには新しい発見が必要になる。

年をとると、過去の方を剥いて後ずさりするような
人生になってしまうので、過去のことばかりこだわって、
新しい発見と縁遠くなりがちである。

それではいけないから、老骨に鞭打ってでも
年寄り臭くないように努力をしているのが
本書という鏡にうつっている自分の姿であろう。

本書はたまたま70歳の坂を越える私自身の
苦悩の記録になってしまったが、
最近の私はいくつになっても
鮮度が必要なことをいよいよ痛感するようになっている。
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2017年06月08日

あの人に会いたい「邱永漢」

ハイQは最近更新をストップされていますが
NHKのアーカイブスの紹介が出ています。

それは「あの人に会いたい」という
2012年に放送された番組で
それのアーカイブスを配信しています。

下記のリンクをクリックして
検索蘭に「邱永漢」と入力すると表示されます。
http://www.nhk.or.jp/archives/

実際の放送はもう少し長かったと思いますが
アーカイブスでは3分程度に編集されての配信となっています。

株をされている方は
邱永漢先生の本とかを読んだり
先生の考察団に参加されたりして
その恩恵に預かられた方も多いと思います。

私の場合は○して覚える状態が続いていますが
先生の図書を参考に未だ取り組んでいるところです。

株以外にも定年後の心配とかも
先生の本を参考にしていますが
どうするべきか悩んでいることが多く
先生に相談できればと思うことがありますが
今となっては叶わないことです。

元秘書であった方と話している時に
先生に会いたいと思うことがあると言うと
そのためには天国に行かないとダメですね
と返されたこともありました。

今回NHKのアーカイブスで
先生の若い頃から晩年までの写真を見て
先生の歩まれた時代と先生の生き様に
思いを馳せることになりました。

さて、ここで自分の人生に戻って
これからをどう生きるか
手探りで初めての定年後の人生に
突入して行きたいと思います。
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2016年12月24日

自分はどうすればよいのかの原点に立って

「もしもしQさんQさんよ」は
Q先生が亡くなってからも昔の記事を
順次再掲示されています。

このことは多くのQ先生ファンの方々が
望まれたことの様で
毎日昔の記事が再掲示されています。

その中でQ先生はこれからの日本はどうなるのか
自分はどうすればよいのか
ときどき原点に立ちかえって考える必要があると
書かれています。

先生は人生の大半を過ごしてきて
残りの時間は少なくなってきており
これ以上お金儲けをする必要はないし
自分の地位を高くしたいと思う必要もない。

なのでこれからの日本とか自分の生き方を
考えずに過ごすことはできるが
先生の場合は若い人と同列に考えるので
これからの人生をどうするかを考える。

そうするとわからないこともたくさんあるし
どうやればいいのかヒントも
たくさん湧いてくると書かれています。

先生は若い頃から自分で仕事を創り出し
それを実行して来られたので
年を重ねられても行動的に過ごすことが出来るのでしょう。

私は先生の真似はできませんが
自分の人生を原点に立ちかえって
何をするときに時間を忘れて取り組むことが出来るか
すなわち好きなことは何かを考えてみて
これからの人生の進路を思い描いてみたいと思います。
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2016年12月02日

邱先生の失敗の中にノウハウありを読み返して

失敗の中にノウハウありは
私が26歳の頃に一度読んだ本で
2008年の第50回の考察団では
文庫本が参加した人に配布されました。

考察団ではハノイのワイルドライスという
レストランで夕食をとったのですが
その時に配布された本について先生に質問した記憶があり
なぜこの本を配布されたのかとお聞きすると
在庫があったので、とのご回答だったことを思い出します。

本の表紙には邱先生のにこやかな笑顔の写真があって
その下には何かにぶつけてひびが入った卵の写真が配置されていて
さらにそのしたには先生の言葉であります。

「失敗をおそれる人は
 失敗をおそれるあまり
 賭けを断念してしまうから
 失敗もしない代わりに
 成功のチャンスも失ってしまう。
 私が失敗をおそれないのは
 「成功とは失敗を栄養として
  大きく伸びる樹木のようなものだ」と
  考えているからである。」

また、「金儲けの神様邱永漢が儲けそこなった話」
と副題がつけてあります。

邱先生の本はどの本も先生の笑顔の写真があって
お金持ちはにこやかに暮らせるのだと思い
自分もそうなればと思っておりました。

先生の著書を読んで実行したこともありますが
やれていないことがほとんどだと思います
先生の思想を吸収すべく考えていますが
考えを思いめぐらせるだけで実行は難しいです。

損して覚えると先生は書かれていますが
その点は実行できているのですが
成功につなげることはこれからとなっています。

いろんなことにチャレンジして来られた先生ですが
この本を読むと損害はかなりと思います。
でも結果的には成功者となられているので
損害を受けても別のところで
ちゃんと取り戻されたということなのでしょう。

人生には失敗はつきものです。
でもそれで命まで取られるわけではないので
命のある限り新しい事にチャレンジすることで
生き甲斐を持って生き生きと暮らしたいものです。
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2016年12月01日

失敗の中にノウハウあり「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは、損をすれば、
何事もよく覚える。授業料を払わなければ、
利口にはならないものなのである、
と書かれています。

私の個人の金儲けの歴史は大体以上、
ご覧いただいたとおりである。
皆さんにとって意外だったのではないかと思うことは、
それほどソロバンづくでもないことであろう。

政治意識とか、全体の経済の流れとかに
気をとられすぎるとお感じになった方もあるかもしれないが、
それは私の生まれとか、育った環境によるものであろう。

もちろん、今の私は日本人の一員として世界の動きを見ている。
国籍もそうなっているし、世界中のどこの国の人に
一番近いかときかれたら、やっぱり日本人というほかない。

しかし、世界が一つになって行くずっと前に、
台湾人を父に、日本人を母に生まれ、
また中国家庭の教育と日本の学校の教育を、
子供の時から同時にずっと受けてきたので、
一足先に国籍なんか問題にしなくなっているし、
エスニック人間として、度量の狭い国粋主義や
民族主義には同調できない立場に立っている。

そういう人間として、あちこち壁に頭をぶっつけてきたが、
その中には生命を賭ける場面もあったし、
巨額のお金や名誉がかかる場面もあった。

お金は生活していく上で大切なものだから、
お金を投じて大きな報酬にあずかれば嬉しいし、
損をすれば青くなる。

それは私にとっても例外ではないが、
ただ私の場合は生命を賭けるゲームをやった時に比べれば、
お金を損するくらい何でもないじゃないかという気持ちがある。
多分、それだからであろう、性懲りもなく失敗を重ね、
その度に、少なからず損をくり返している。

もちろん、同じ物事を覚えるにしても、
損はなるべく少なくして素早く覚えるのが
経済原則にかなっている。

そう思ったので恥をかえりみず
自分の失敗談を読者の皆さんに披露してきた。
大した宝の山でもないが、
もって他山の石としていただければ幸いだと思っている。
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2016年11月30日

アメリカへ進出「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは、日本企業はこれから
アメリカに進出するようになるだろうから
投資考察団を組織して、西海岸に実地見学に
何回も出掛けるようになった、と書かれています。

日本人のこれからの最大関心事は
日米間の貿易摩擦をどう解決するか
ということにあると私は見ている。

円高になっても、日本の対米輸出メーカーたちは、
さらに一段とコスト・ダウンに努力して
円高になった分を帳消しにしようとするだろう。

もしそうだとしたら、日米経済摩擦は
さらに一段とエスカレートするから、
アメリカはそれをがまんできなくなって、
自由貿易を事実上、骨抜きにしてしまうような
動きがますます表面化してくるに違いない。

したがって日本の企業で、
アメリカに商品を輸出しているほどの企業は、
アメリカ市場を確保するために
工場を現地に動かすよりほかなくなるだろう。

一旦、一つの新しい着想につかまると、
それを頭の中にだけしまっておくことは私にはできない。
どんなことがあっても必ずそのテストをしないでは
気がすまないのが私の気性なのである。

現に私は、日本国内におけるコスト・インフレを見越して、
下請け工場群の韓国や台湾への移動を主張し、
それを実行に移してきた。
一時はそれが日本の産業界の大きな流れになった。

ところが、石油ショックによってピンチに追い込まれた産業界が、
省エネと自動化という二つの奇手を考え出し、
その実現に成功したのを見たとき、
私は日本が第三国に工場をつくって
コスト・ダウンをはかる時代はもうすぎたと直感した。

自動化は国内における生産を再び可能にしただけでなく、
同時にアメリカに工場を移動することも
可能にしたと見たからである。
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2016年11月29日

逆ブーメラン現象で工場を次々と閉鎖「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは、石油ショックの後で
日本人がピンチを抜け出す努力をしたので
台湾で7社も店じまいをすることになった、
と書かれています。

石油ショックは、日本のように
石油の90%以上を輸入に仰ぐ国にとっては、
蒙古来襲にも比すべき国難であった。

日本人はこうしたピンチに直面すると、
いっそう団結も堅くなるし、
一致協力して困難にあたる気質を持っている。

石油が高くなったのなら、
石油をなるべく使わないようにすればいいじゃないか。
人件費が上がりすぎてコストに影響するのなら、
人を使わないで生産する方法を考えればいいじゃないか。

そういう発想のもとで、
日本人が新しく考え出したピンチ切り抜けの具体策は、
一つは省エネであり、もう一つは自動化であった。

こうした起死回生策のおかげで、
日本は物の見事にピンチを抜け出しただけでなく、
一段と国際競争力を身につけることに成功したので、
資源国よりも付加価値を創造する国のほうが
はるかに有利な立場にいることを
全世界に向かって証明することになった。

これは海外に工場を移してきた私にとっては
全事業をスクラップ化してしまうほど
驚天動地の出来事であった。
なぜならば、コスト・インフレを日本内地にいて
克服することができるなら、工場を海外に移す必要は
なくなってしまうからである。

したがって日本企業で、現地にマーケットを持たず、
コスト・ダウンだけを目的にして
第三国への輸出を目指して設立された工場は
すべて閉鎖される運命になってしまった。

私が台湾につくった工場にはそうした性質のものが多かったから、
当然、私もそうした激流の中で天手古舞をさせられることになった。
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2016年11月28日

台湾の株式投資に振り回されて「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは、ホンのタッチの差で、
私はカントリー・リスクの谷間を
走り抜けたのである、と書かれています。

日本人が日本で株を買うのだって、
所期の成果を上げるのは容易ではない。
ましてやアメリカの株を買うとか、
韓国、台湾、香港、シンガポールの
株を買うとなると、もっと遥かに難しい。

カントリー・リスクという面からいえば、
アメリカの株を買うのが最も安全であろう。
ところが、日本円でアメリカ株を買うとなると、
日本円が高くなれば、値上がり分が相殺されて
元の木阿弥に戻ってしまうことが考えられる。

東南アジアの株も、難しいという点では
アメリカ株を上廻わるかもしれない。
私の場合は、台湾で永漢証券投資公司という会社まで設立して、
株式投資に乗り出したので、身をもって発展途上国の
株式投資の難しさを体験することになった。

あとになってその原因を反省して見ると、
まず第一に、台湾の上場会社の体質を見誤ったことである。
たとえば台湾の化繊会社のコストは20%くらい安い。
しかし品質面でおとるし、二級品扱いを受ける。

第二に、盛んに粉飾決算をやることとである。
台湾では株価操作や税務対策のために
平気で粉飾決算をやる一般的風潮がある。

台湾のような社会信用のまだ発達していない社会では、
会社の業績だけを見て株を買ったのではだまされてしまう。
会社の業績もある程度参考にするが、
何より大切なのは、何と言っても経営者の人柄である。

すでに三億円も損を出して勉強したあとなので、
私はすべての繊維株を売っ払い、
この経営者ならと信頼する株に乗りかえた。

この方針を打ち出してから二年目の終わりには
どうやら5分配当ができるところまで漕ぎつけた。

おかげでいくらか名誉を恢復することができたが、
株式に対する常識を全く持たない監督官庁の下で、
證券投資公司をやっても先行き見込みがない
と思うようになっていた。
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2016年11月25日

台湾の繊維株に投資して大やけど「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは、化繊株を株を買ったが
景気が傾きはじめ、一年もしないうちに、
3億円分値下がりしてしまった、と書かれています。

私は養鰻事業をやろうとして一億円持ち逃げされた。
また、牧場を経営しようとして4千万円も
牛に食われてしまった。

養鰻のときは詐欺の舞台となった
鰻の池を取り戻したのでもう一度、
シラスを購入してはじめからやり直してみたが、
池の設備も旧式だし、桃園という地域は冬の気温が低すぎて
鰻の育ちが悪いことがわかったので、
包装設備だけを活用することになり、
鰻は養殖業者から仕入れてもっぱら台湾から日本へ
鰻を運ぶ貿易に専念することにした。

そのうちに、私のパートナーになってくれた
若い日本人が度重なるカルチャー・ショックに草臥れて、
次第にやる気を失ったので、とうとう店じまいをしてしまった。

養鰻に際しての失敗は私の不注意から起こったことっである。
もう一方の牧場経営の失敗は台湾政府の経済政策の
デタラメさの被害にあったようなものである。

発展途上国へ行くと、しばしばこういった
無策無方針の犠牲にされることがある。
これからの日本人は、好むと好まざるとにかかわらず、
このハードルを乗りこえていかなければならず、
まだまだ大きな試練が待っているといってよいだろう。

それならば、「昔とった杵柄」なら失敗しないかというと、
台湾へ帰って株をやったときも、
同じように大失敗をやらかしているのだから、
弁解の仕様はないのではあるまいか。

昭和47年に私が台湾にへ迎えられ、
一年余りたってからやっと永漢証券投資公司
という資本金一億元の金融会社が出来上がった。

私は日本でかねてから株式調査に才能を持っていると
見込んでいた菅原という証券会社の人を
調査部経理として招聘した。

上場企業を調査した菅原調査部経理は、
私に台湾の化繊株を買うことをすすめた。
どこの化繊会社も空前の活況を呈していた。

菅原さんの説明によると、台湾の化繊業は
日本に比べると、後発なだけにコンパクトにできていて、
設備も最新鋭である。そのうえ人件費が安いから
コストが二割ぐらい日本より安くなり、
景気が恢復しはじめたら、儲かるようになるだろうという。
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2016年11月24日

牧場主の夢一幕で4千万円「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは、牧場道楽の代価は
締めて4千万円。その分を私は出資者の
一人一人に返却しておしまいにした、
と書かれています。

私は町なかの小商人の家に生まれたので、
何百町歩も田畑を擁する田舎の地主の生活に
一種の憧れを抱いていた。

私はもし牧場をつくるなら、
将来、工業団地か住宅地にでも転用できるような
都会の周辺がよいと思った。

ちょうど新市というところに工業団地をつくったので、
そこからさらに自動車で20分くらい先にある
番子団の付近で田畑を約40甲歩買った。
それから投資奨励法に基づいて、
日本からの投資許可の申請をした。

私は国が奨励しているくらいだから、
二か月もすれば、簡単に
許可が下りるものだとばかり思っていた。
ところが、牧畜業に僑外投資は不要だからといって
投資業処から書類を突き返されただけでなく、
農民の資格がないと、土地を買うことができないから、
土地の登記申請は受付れらないと、
これまた郷公所から突き返された。

これだけの目にああされたら、
百年の投資熱も醒めないわけはないだろう。
しかし、賽はすでに投げられており、
途中で引き返すわけにはいかない。
整地は終わり牧舎もできて、
乳牛の牝を300頭ほど買い入れて
飼育はどんどん進行していた。

幼牛のときはまだ大したことはないが、
大きくなりはじめると猛然と食いはじめた。

それだけでもたまらないのに、
国が牧畜を奨励業種に指定しておきながら、
経済部(通産省)がオーストラリアからの
牛肉輸入をいきなり自由化する挙に出た。
このために、島内の牛肉の値段が
一挙に半分に暴落してしまった。

私はすっかりあわてた。
300頭の牛に月に300万円ずつ食われたのでは、
愚図愚図しているうちにこちらが食い倒されてしまう。
もう一刻も待っていられない。

私はすぐ担当者をよんでいくらでもよいから
叩き売ってくれるように指令をした。
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2016年11月23日

日本人の偏見に敗れた台湾製剣道具「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは、コスト・インフレに
対抗する実験のために6千万円の
授業料を払った、と書かれています。

私は「自分の故郷では事業をやっても
うまくいかないだろう」と
占い師の人に言われたことがある。

故郷で事業をやっても上手くいかない理由は
いくつか考えられる。
どこの町、どこの村に行っても、
自分の田舎で大事業家になれた人は珍しい。

故郷で大成功をおさめるのは難しいかもしれないが、
私は働き盛りをほとんど香港や東京で
暮らしてきたのだから、
自分の故郷を他所者の目で見ることができる。

その私の目から見れば、
私の生まれ故郷の台南は京都みたいなところで、
街中も寺廟のような名所旧蹟ばかり、
住んでいる人も保守的なら、商売のやり方も
退嬰的で街並みも十年一日のごとく変わりがない。

そういう観点から台湾をみると、
台湾の人件費は日本の三分の一以下で、
しかも労働予備軍はいくらでもいる。

岐阜の経営者グループの一員の坂井さんというのが、
剣道具をつくったらどうでしょうかと提案してきた。
そこで台北市の基隆街という所に工場を借り、
東洋剣具股份有限公司という合弁会社を設立した。

ところが、日本人には奇妙な性癖があって、
同じ日本人が監督指導して作ったものであっても韓国製、
台湾製だと安く叩いて買おうとする。
コストが安いのだから売値も安くて
当然じゃないかと最初から値切ってかかる。

洋服やハンドバッグだと、どんな粗悪品でも
フランス製やイタリヤ製なら高く買うが、
韓国、台湾と聞いただけでアラ探しがはじまる。

結局私が毎月のように不足する資金を補うことになった。
金ぐりに追われながらも、総経理になった台湾の人は
死に物狂いで頑張ったが、私の出資金が6千万円に達したとき、
私は遂に工場の店じまいを命じた。
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2016年11月22日

既製服の滞貨一万五千着を抱え込む「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここではいざというときに
あてにならない点では、日本人だからといって
別に変わりはないのである、と書かれています。

養鰻場に案内してくれた社内で、頼文彬は、
養鰻事業の内容についてあれこれ説明してくれた。

私たちを乗せた車はベンツの新車で、
私は当然、本人の持ち物と思っていたが、
あとで露見したところによると、
台湾資生堂の総経理からの借り物であった。

これもあとでわかったことだが、
実は資生堂の総経理も、
私と同じような手口で詐欺に引っかかり、
私からだまし取ったお金の中から、
ひっかかったお金の一部を返済してもらったそうである。

あとできいてみると、日本で粒々辛苦して
お金のできた華僑の人たちで、
台湾へ帰ってきて、ペテン師にひっかかったのは
数えきれないほどいるそうである。

また現地人だけが悪くて日本人は常に被害者に
まわっているということではない。
私自身、日本側の不手際によって大損を
一手に引き受けさせられたことも再三ならずあった。

昭和40年代の後半は、日本国中がコスト・インフレで
頭を抱えている最中であった。
私がコストの安い台湾で工場を作りましょうと誘い、
高雄市の加工区に裁縫工場を作った。

台湾の賃金が安いのが狙いだったが、
実際に作らせてみると、
日本では一人で一日二着の上着を裁縫するのに、
台湾では二人でやっと一着しかできない。

運が悪い時は悪いことが重なるもので、
工場をスタートさせてから間もなく
石油ショックが起こった。

出来上がった製品を東京へ送ると、
値が高くなりすぎて引き受ける人がいなくなり、
たちまち滞貨の山となってしまった。

気がついてみたら東京の私の手元に
一万五千着の礼服が滞貨として残ってしまった。
私は工場を閉鎖し、解雇する従業員にはちゃんと退職金を払い、
手元に残った礼服を三年がかりで処分した。
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