2016年11月21日

養鰻をネタに一億円持ち逃げされる「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは忙しいスケジュールをさいて
桃園の現場まで出かけていったが
ペテン師にまんまとひっかかって
一億円持ち逃げされた、と書かれています。

昭和47年4月2日に、私は24年ぶりに
生まれ故郷の台湾の土を踏んだ。
松山の飛行場に着くとは百人以上の報道陣が待っていて、
タラップを下りる私をわっと取りかこんだ。

私は首からレイをかけさせられ、
貴賓室に連れていかれて記者会見に臨んだ。
四半世紀も台湾語を喋る機会がなかったので、
記者たちの質問に対して、私は一句一句思い出しながら、
かみしめるように答えるのがやっとであった。

私が帰った当時の台湾は、国連脱退のショックから抜けきらず、
随所に掲げられたスローガンも「自立自強、処変不驚」
という内容のものであった。

ちょうどこの時期は、日本の高度成長もいよいよ
絶頂期にさしかかっていたので、
どこの企業もコスト・インフレに悩まされていた。

かつて日本の植民地として日本規格の
商品づくりのできる韓国と台湾は、
工業をとりまく社会環境が日本の次くらいのレベルにあり、
人件費も日本の三分の一以下であったから、
日本の下請けをやれる条件は揃っていた。

台湾の新聞という新聞が一ページ大のスペースを割いて私の帰国を報じた。
国民政府は今まで私の存在を隠そう隠そうとしてきたが、
今度は私を精神安定剤として利用する目的であったから、
私を日本で最も成功した華僑として大々的に報道した。

私は「株の神様」であり、「日本で幾多の事業をやっている資産家」であり、
また「外国人で一番はじめに日本の著名な直木賞をもらった作家」であると、
あることないこと洗いざらい掲載した。私がみても、誇大広告の観があった。

多分、そのせいであろう。私が台北の飛行場に到着するたびに、
私は多くの人々に取り巻かれ、台湾で新しい仕事に投資をしないかと
次々と話を持ち込まれた。

話しに乗ればうまくいったかもしれない事業もあった。
しかし、話に乗ったために
ひどい目にあわされた仕事のほうがずっと多い。
その中の一つに鰻の養殖というのがある。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月18日

亡命24年、国民政府から帰国の誘い「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは、生命からがら
故郷を逃げ出してから、ちょうど24年ぶりに
台湾へ帰る決心をした、と書かれています。

約二年間、なけなしのお金をつぎ込んだおかげで、
私は雑誌の経営は果樹園の経営に
よく似ていることに気がついた。

農業は鍬を入れてから収穫に至るまでの時間が長い。
その代わりいったん収穫があるようになると、
少々手入れを怠っても毎年のように果実が実る。

私は「話の特集」から直接、
果実を摘みとる幸運には恵まれなかったが、
その手法を次に手掛けた美術雑誌
「救美」に応用して、美術ブームに一役買った。

さて、次から次へと失敗を重ねながらも、
またまた失敗に懲りずに、
新しい失敗に挑戦できたのは不思議じゃないか。

私ほど損をしたら、もうあとが続かなくなりそうなものである。
それに懲りもせず、何回も失敗できたのは、
私が旺盛な企業意欲を持っていたからでもあるが、
損をする場合も警戒心が強く、
損害を最小限にとどめようとして
絶えずブレーキを踏んできたからでもある。

私はどこまでなら自分は損に耐えられるか、
常々心得ていたし、その限界に達する前に潔く撤退をした。
また性懲りもなく失敗を重ねたが、
いくらかうまくいったものもあった。
なかでも苦境のときに私を地獄から救ってくれたのは、
不動産への投資であり、不動産の値上がりであった。

「不動産投資なんて商売じゃないよ。
 お金は儲かるかもしれないが、
 こんな面白くないことは長くやるものじゃない。」
と私は妻に言ったことがある。

ちょうどその頃、国連に中国が加盟することに決まった。
「二つの中国」はあり得ないという
中国と台湾の双方の一致した主張に従って、
国民党政府は席を蹴って国連から脱退をした。

この事件は台湾政府にとって大きな衝撃をあたえた。
私にとっても将来の生き方を左右する大事件であった。

年の暮れになると、国民党本部から私のところに、
国に帰らないかと内々の打診があった。
年が明けると、大臣クラスの地位の高い人が
東京の私の家まで訪ねてきた。
続いて、かつて私を捕らえる立場にいた
台湾のFBIのボスが、副局長を派遣してきて、
私に正式に国へ帰ってほしいと交渉があった。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月17日

「話の特集」の再建に大金を注ぎ込む「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは、「話の特集」は
今も続いているが、もう往時の面影はない。
人間も年をとるが、雑誌の年のとり方は
人間よりずっと早い、と書かれています。

矢崎君の復刊した「話の特集」は、
戦前の物とは全然イメージの違ったもので、
横尾忠則に表紙を描いてもらったくらいだから、
なんとなく歓楽街のネオンの点滅を
連想させるようなサイケ調の雑誌であった。

その創刊号を持って矢崎君が石川台にある
私の家へ小説原稿の依頼にきたとき、
私はその新鮮さに思わず目を見張った。

と同時に、時代の先を走りすぎていて、
これではとても売れそうにないだろうし、
とても採算にのらないだろうという考えが
まず私の頭の中をかすめた。

しかし、金食い虫の雑誌のことだから、
一年もしないうちに資金にショートをきたし、
休刊に追い込まれてしまった。

「何とか助けてくれませんか」と矢崎君は言った。
一年後なら百万円損してもと思ったが
一年早くても同じじゃないかと思いなおした。
翌日、私は矢崎君に電話して、
「話の特集の再建は引き受けましょう」と通告した。

雑誌の経営は私にとってははじめての経験であった。
私は収支のアンバランスを縮めるために、
徹底的な緊縮予算を布き、まずセントラル・アパートの
編集室を引き払って私のオフィスの三階に移し、
編集費も月四十万円ときめ、
一円とび出しても一切とりあわなかった。

後に有名になった篠山紀信とか、
立木義浩といったカメラマンに有名モデルや
当時売り出したばかりのピーターのヌードを
撮ってもらってグラビアに載せた。

その新奇さが週刊誌などで報道されるたびに、
「話の特集」は少しずつ部数をふやしていった。

しかし、その頃から矢崎君は雑誌の宣伝をするよりも
自分の売り込みに熱中するようになった。
おかげで「話の特集」のマンネリ化も激しくなったし、
他の雑誌がサイケ調を大胆に取り入れるようになったので
すっかり目立たなくなっていた。

私は腹立たしくなって何回か本人にも注意したが、
もはやこれまでと思って、ある日矢崎君を呼んで、
私は1910万円かけてつくりあげたものを
そっくり矢崎君にあげた。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月16日

産毛とともに消えた毛生え薬への情熱「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは、商売にはならなかったが、
いまでも私自身は「救髪」を愛用しているし、
「救足」は水虫で困っている人に
ただであげている、と書かれています。

ハゲと水虫に効くクスリがあったら、
ノーベル賞ものだと昔から言われている。
世の中で現に市販されている毛生え薬は山ほどあるが、
本当に効くものは残念ながら一つもない。
私自身が全部一通り試しているから、
自信をもって断言できる。

だいたい、毛根がなくなったら、
毛が生えなくなるというが、
毛根という表現が人を誤らせる。

毛は植物のように頭の中に根を下ろして
成長するものではなくて、
毛そのものは皮膚の一部であり、
毛髪は地球の表面にたとえれば、
土が盛り上がって山脈になった部分のようなものだからである。

同じ細胞でも、毛髪になる部分の細胞は、
細胞の新陳代謝がスムーズに行われておれば、
髪の毛になって現われるだけのことである。

だから、これは私の推理だが、
髪の毛が薄くなったり、ハゲ落ちてしまう人は、
この新陳代謝の機能が何らかの障害によって
失われるのであろう。

「文藝春秋」誌に「頭に毛の生えた話」と題して
これまでの経過を書いた。
反応はワッと巻き起こった。

そこで毛生え薬を商品化して売る決心をし、
大森に製薬工場をつくって
「救髪」と「救足」という毛生え薬と
水虫の薬を売り出すことができた。

売り上げも順調で初年度から黒字になった。
ところが、あとが続かなかった。
私に生えた産毛は黒々とした
髪の毛までは成長せず、産毛のまま終わってしまった。
それは現在の私の頭が示しているとおりである。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月15日

毛生え薬で億万長者の夢を見る「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは、毛生え薬で産毛が
生えたのを見つけて、これが本当なら
たいへんなお金儲けになるぞと、
反射的に考えたと書かれています。

著述家としての収入は、個人の収入としては
家計をみたすには十分であるけれども、
商売の金ぐりをするとなると
文字どおり焼け石に水だった。

こんなことなら、もうこれ以上よけいなことに
手をだすようなことはやめることにしょう。
そう思ったことが一回や二回ではなかった。

しかし、喉元すぎると、たちまち熱さを忘れて、
また次の新しい仕事に手を出して苦しんだり、
もがいたりすることの中に恍惚を感ずる性に違いない。

その恍惚感が忘れられずに、
「毒を食らわば皿まで」といった体験を
くり返すことになってしまうのであろう。

ある日、人の紹介で特殊な酵素を開発したという人が、
その企業化について軽井沢の私のところまで訪ねてきた。

その人は獣医の出身で、
牛の内臓をいじっているうちに
動物の生命力とかかわりのある酵素を
培養することに成功した。

自分の発見した酵素は皮膚のヤケドにも、
また水虫にも何にでも効くと言って自慢した。

そばで聞いていたまだ小学生だった次男が、
「ハゲにも効く?」と聞き返した。

そうしたら、その小父さんが、
「ハゲにもよくききますよ。頭につけると毛が生えてきます」
と真剣になって答えた。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月14日

テナント解約が続出した貸しビル業「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは、「お金には
人間の生命を左右するだけの
値打ちはありません」と妻からいわれたと
書かれています。

事業をやる人は、スタートの時点で、
何を自分の事業に選ぶかで運命が
大きく分かれてしまう。

選んだ事業がうまく時世に合致した事業で、
波に乗って成長できれば、
信じられないくらいでっかくなるが、
行きつく先が袋小路のような事業だと、
たちまち壁に頭をぶっつけて行き詰ってしまう。

時代の波に乗る人と、
時世に置き去りにされる人と
どちらが多いか見比べてみると、
むろん、後者である。

うまくいった仕事はそのままほっておいても
自然に大きくなるが、うまくいかなかった仕事は
どこかで片をつけなければならない。
そころが、うまくいかなかった仕事を片づけることは、
新しい仕事をはじめることよりずっとむつかしい。

さて、さきにも浅野八郎氏が指摘したように、
いくつもの仕事を同時に並行してやらないと気のすまない私は、
少し資金的に余裕ができると、また次のビル建築に乗り出した。

この地所は中野の鍋屋横丁の4メートルの
私道に面した路地裏にあった。
4階建てのビルを建てて、これに
「立体ビル」という名をつけた。

建物のロケーションもよいとはいえないし、
規模としても中途半端だったので、
一年もしないうちに、一階を除く
二,三階、四階のテナントから
同時に賃貸借の契約解除を申し込まれてしまった。

さすがの私も私も青くなった。
生まれてはじめてのヨーロッパ旅行に出掛けていた私は
生きた心地もしないままに羽田に戻った私は、
妻の顔を見ると「もうこのまま死んでしまいたい」と言った。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月11日

勇んで始めた砂利屋が倒産の危機に「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは、待ちに待ったブームが押し寄せ
砂利の値段が上がりはじめると、
監督官庁の規制は以前にもましてきびしくなり、
採取量は逆に減らされてしまった、と書かれています。

アメリカ式のドライクリーニング屋の
チェーン店づくりとはほとんど同時進行で、
私は栃木県の鬼怒川べりで砂利屋をはじめた。

鬼怒川はちょうどその採算圏ギリギリのところにあったが、
先々のことを考えれば、いまから着手をして
ちょうどよいという気もしないではない。

そこで資本金500万円の会社をつくり、
関西工機には200万円出資してもらい、
私も200万円出資し、地元の採掘権を持った人に
社長になってもらい100万円は私が立替えた。

その頃私が推薦した株の中に佐藤工業があった。
私は佐藤工業の社長のところへ出かけて行って、
鬼怒川べりで砂利の選別工場を作ることになったが、
製品を買ってもらえないかと持ち掛けたら
二つ返事で受けあってくれた。

ところが、実際にやってみると、
次から次へと障害が起きるもので、
文士の砂利屋は小説の中の登場人物を
動かすようなわけにはいかなかった。

まず社長になった奴が、権利の二重売りをしたので、
プラントをつくって見たら、同時に二つできてしまった。

自分は一文も出資していないのに、
情婦まで連れてきて月給は二人分もらうし、
仕事には盛んに口をはさむ。
また会社のお金を、無断で自分の旧負債の返済に流用する。
とうとう監督官庁から機械の運転をさしとめられてしまった。

あとになって考えてみると、この時期に、
砂利屋をやることは、業種的にも、
タイミング的にも決して途方もないことではなかった。
砂利屋で巨額の富を築いたひとは一人や二人ではなかった。

私が砂利屋をやって成功しなかったのは、
第一に私が文士を業をやりながら、
片手間にそれをやったからであった。

第二に砂利ブームが鬼怒川べりに波及するまでに
あと5,6年かかったことである。
第三は複雑怪奇で矛盾した砂利行政に
ふりまわされたことである。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月10日

損して覚えたチェーン店経営のコツ「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは、何ごとも損して覚えるのが
一番早く覚える方法だと私は思っている、
と書かれています。

コインオペのクリーニング屋をやってみて、
勉強になったことがたくさんある。

というのはたとえどんな小さな店であっても、
実地に店を何軒か開いてみると、
店を持つことの悩みや苦しみが
よくわかるようになるからである。

売り上げの大きい小さいは、店のロケーションにもよるし、
周辺に住む人たちの懐具合にもよるし、
また近くに競争相手がいるかにも左右される。

同じ投資をして店をつくっても、
立派に採算が成り立っていく店もあれば、
どうしても赤字から這い上がれないで
頭を抱えてしまう店も出来てしまうのである。

チェーン店を作っていくプロセスで、
絶えずCクラスに当たる店を
閉鎖してしまうだけの勇気が要求される。

同じだけお金をかけてつくった店を
己の意志に反して整理することは
血の出るような苦しいことである。

それを押し切ってスクラップ・アンド・ビルドを
やらなければならないのだから、
よほどの思い切りのよさがなければ、
チェーン店を展開して成功をおさめることはできないのである。

最終的に店を他人に譲る気を起こしたのは、
何といってもクリーニング屋が零細企業に属し、
しかも過当競争で人件費の上昇するなかでも
ロクに値上げもできず、しかもシーズンオフになると
商売が激減して年間を通じて大した利益の期待できる
業種ではないと見切りをつけたからである。

また実際に仕事をやってみないと
想像のつかないことがいくらでもあったのである。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月09日

脱サラ組に食われた「コイン洗濯屋」「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは、さんざん忙しい思いをして
はじめたクリーニング屋であったが、
全部やめていまも家に残っているのは、
店を売り払って整理したお金で買った
香月泰男の絵一枚だけである、と書かれています。

私などとりたててお金儲けがうまいわけでもないのに、
いつの間にか「お金持ちの神様」にされてしまったのだから、
考えてみればおかしな話である。

思うにそれは、私がジャーナリズムで臆面もなく
金銭の話をするようになったからであろう。

第二に、ジャーナリズムでお金に話をする人は、
他にもたくさんいるのに、
自分でそれを実践している人が少ないということであろう。

第三に、私が思いつくような事業や投資は、
無一文からはじめるものもあれば、
少しばかりお金を貯め込んでいる人なら、
それを元手にスタートできる程度のものが多い。

たとえば、日本経済はすでにかなりのスピードで発展しており、
人手不足が表面化していたので、
集配人を使わないスタイルのクリーニング屋が、
やがて日本でも受け入れられていくであろうことを私は直感した。

そこで、自分の住んでいる都立大学の駅前に
十坪ほどの店舗を借りて、東京で一軒目の
コインオペによるドライクリーニングの店を開いた。

最初の四か月はほとんどお客がなかった。
私は自分でチラシをつくり、
チンドン屋をやとって住宅街を宣伝してまわってもらった。
年が明けて三月になると、卒業式の日を境に
ドッと洗濯物が持ち込まれて、
店の中はひっくりかえるような大騒ぎになった。

おかげで商売が繁盛して月に30万円も50万円も
利益が上がるようになったが、
あっという間に東京だけでも何千軒もの新しいお店ができ、
創業者利益を得る間もないうちに、
たちまち猛烈な過当競争におちいってしまった。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月08日

不況に負けたコンサルタント稼業「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここではコンサルタント業をはじめたが
不景気になり会社を閉じて家に引っ込んで一年間、
歌謡曲をつくって見過ぎ世過ぎをすることに決めた
と書かれています。

私の人生は、概して言えば、せっかちの人生で、
かなり先を突っ走って気がついてみたら、
だれもついて来ないので、皆の姿が見えるまで
待っている時間がいつも長すぎる。

せっかちはいつもせっかちで、
のろまはいつものろまである。
せっかちにはせっかちの失敗がある代わりに、
せっかちでないと味わえない喜びもある。

しかし、株には先見性という性質があるし、
その株の動きを予想するためにも、
また先見性が必要とされているので、
私のせっかちはかなり役に立っている面もある。

私は成長株を探すにあたって、
技術革新だけではなく、経営に従事している
人たちがどんな人であるかにも関心を抱いたので、
できるだけチャンスをつくって工場見学にも出かけたし、
社長さんにもお会いするように心掛けた。

社長さんの中にはうちの顧問をしてくれないかと
申し込んでくれる人もあった。

ちょうどその頃、渋谷の東急本社の隣の路地に面して
地下一階地上四階の小さなビルを建てたばかりであった。
私はそのビルに「マネービル」という名をつけた。
そこでコンサルタント業務をやることにした。

事務所をひらくと、朝から晩まで会員企業の
トップの人たちに押しかけられて、
私は食事の時間もないほど仕事に忙殺されるようになった。

多忙な時期は二年ほど続いた。
しかし、昭和三十九年に入ると、中小の上場会社は
業績が悪化して社長たちは金ぐりにとびまわるようになっていた。

こういうときこそ自分の出番だろうと、
私はひそかに期待していた。
ところが不景気の波が押し寄せると、
各企業はいっせいに冗費のカットに力をいれるように、
顧問費の一時停止を申し込まれた。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月07日

タイミングも考えずに買った造船株「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは科学者が思い描く
十年か二十年先の夢物語を聞いて
それが明日起こるものと早合点して
すぐに造船株を買ったが
株にはタイミングがあることに気がついたと
書かれています。

株をはじめる前は、株について
全く知識を持っていなかったので
株価というものは、株の大手が
つくり出すものだと私は思いこんでいた。

ところが、四大証券の株式部長さんだとか、
中小証券の社長さんたちと話をしていると、
株価の将来について何も知らないという点では、
ベテランもシロウトも
ほとんど変わらないことにすぐに気がついた。

では「相場」を動かしているのは何であろうか。
私はこれは全体としての日本経済の動いていく方向であり、
その動きの中にあって各業界、各企業が
どういう具合に変化していくかという
未来像ではないかと考えた。

したがって正確度の高い未来像を
あらかじめ描くことさえできればよいわけだが、
(1)技術革新が日本経済に与える影響。
(2)企業のトップが自分の企業や業界がどうなると考えているか。
を正確に把えることができたら、
かなり目標に近づくのではないか、と考えた。

そこで当時、連載小説を執筆していた
中央公論社に出掛けて行って
科学技術について広い知識を持っている人を
知りませんかと聞いた。

そうしたら、デスクが吉村昌光さんという
科学技術コンサルタントを紹介してくれた。

エネルギー革命について聞くと
石炭よりは石油、石油よりは天然ガスの時代になる。
コストに大きな違いがありますから、
いずれ天然ガスの時代になるとの回答。

天然ガスの運搬方法を聞くと
十万トン以上の船が必要との事で
それを聞いた途端に日本に空前の
造船ブームがおとずれることになると考え、
証券会社に電話をかけて播磨造船の株を買ったが
50円の株は上下2円の動きしかなかった。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月04日

「時代先取り」でトヨタ株を買ったが「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは、株の勉強をしたかったら、
どんな本を読むよりも、まず株を買ってみることです
と言われています。

小汀利得さんは経済評論家の中でも
私が非常に好感を抱いた人であった。
しかし、景気の見通しとか、株の買い方
ということになると話はまた別である。

小汀さんは経済や株式投資についてはエキスパートである。
ただし、エキスパートとは、経験を積んで
過去のことはよく知っているという意味であって、
未来のことについてよく知っているわけではない。

権威といわれる人の予測でもあたるとは限らない。
いや、当たらなくても少しも不思議ではない。
株価を動かす要素は無数にあって、
専門家でも思いもよらないことがいくらでも起きるからである。

たとえば、半導体の技術革新が
これからの世の中を変えると思っているが、
世の中の動きは必ずしも私の思っているとおりに
動いてはくれないかもしれない。

私はこの次の注目銘柄として目をつけたら、
少々損をしようとどうしようと、
その株に唾をつけておくべしだし、
その株を買う場合も、一定時間をかけて
何回もナンピンをかけながら、買っていくべきものだ、
と現在の私は考えている。

私が着目したのはトヨタ自動車であった。
NHKに頼まれて名古屋に講演に行ったときに、
日本陶器とトヨタ自動車の工場見学に行った。
日本陶器では3千人の女工さんを使って
コーヒー茶碗をつくって一個百円くらいで輸出していた。

ところが、トヨタ自動車では七千人の人を使っているが、
私の見ている前で、一台百万円の自動車が
二分に一台の割合で、完成品としてとび出してくる。
それが羽が生えてとぶように売れていくのだと、
トヨタ自動車の重役さんが説明していた。

私の印象はことのほか鮮明であった。
だからトヨタの株に乗りかえたのである。
ところが、株価に関する限りトヨタはなかなか走らなくて、
日本陶器のほうがよく走った。

駆け出しの頃の私は、単純に最先端を高く評価していたので、
しばしば大漁を逃す思いをした。
実地に経験をしなければ、わからないことばかりだし、
何回経験しても、また意外なことに出くわしてしまう。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月03日

「株」初体験は専門家の助言で大失敗「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生は専門家の言う事が間違いであることは
もはや疑う余地がなかったので、
以来、私は株を買うのに、専門家の意見には一切、
耳を傾けないことにした、と書かれています。

私が「株の神様」ともてはやされるようになったのは、
私が当時の株式投資家たちの発想の盲点をついたからであった。

株を買う人は産業界の横綱だという
客観条件を備えている株を、利回り中心に買う。
そうした利回り買いは、戦前、戦中、戦後を通じて
一般投資家の株式投資の常識であったが、
私はシロウトであったし、株式投資に対する
固定概念を持っていなかったので、
まずこうした考え方に疑問を抱いた。

第一に、横綱がいつまでも横綱ということはない。
今の横綱をひいきにするよりも、未来の横綱を、
まだペイペイのときからひいきにした方が
効率がいいのではないか。

第二に、産業界の番付の入れかわりは、
以前よりずっと、めまぐるしく起こるのではないか。

第三に、成長性を根拠に株を買うほうが報われる
チャンスがずっと大きくなるはずである。

こうした私の判断は、やがて私の「成長株」理論
につながっていったが、もちろん、最初から直感的に
そういう考え方に到達したわけではなかった。

私は株をやってみたいという衝動には駆られたが、
株で損をするのは嫌だった。だから予備訓練のつもりで、
今までページをめくったこともなかった
日本経済新聞にも朝晩、目を通すようになった。

しかし、私はどうしても自分でためしてみないと
気がすまないと思っていたので、
しばらく証券界の動きに注目していた。

それからしばらくたったある夜、
経済評論家の小汀利得さんとテレビ局で一緒になった。
小汀さんがどんな株を買ったときくから、
私は投信の単独組み入れ銘柄を狙った話をしたら、
邱さんらしい人の裏をかく株の買い方ですね。
日本経済はこれから発達するのですから、
もう少し表通りに出たらどうですかと小汀さんは言った。

なるほどと思い、折角、買った株を全部叩き売って、
トヨタ自動車に乗りかえた。
そうしたら、株価が一時、逆に下がった。
反対に私が売ってしまった日本陶器や
日本硝子の株がグングン値を上げはじめた。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月02日

「株」の話で文壇から仲間はずれに「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは、お金の話を書いたがために
いつの間にか私は芸術家の仲間では
なくなっていた、と書かれています。

もし私が小説家になる代わりに、
アメリカ人に住宅を賃貸する商売に手を染めていたら、
恐らく私は土地ブームからまともに恩恵を蒙っていただろうし、
いわゆる「華僑の大物」にもなっていただろう。

では、小説家になることをやめて、
大富豪になる道があったかと言うと、
これは運命なんだろうなと考えさせられる面がある。

人間の観察をするのが文学の主要な仕事であると私は思っているが、
それだって色気という動機だけで割り切れるものではない。

私が見ていると、敗戦の何もなしから再出発した日本であったが、
日本の経済は明らかに、大へんな勢いで浮上する方向に向かっていた。
物書きの中に一人ぐらいお金のことが書ける人がいても
いいのではないかと私は思った。

昭和35年に創刊された「週刊公論」で
「会社拝見」という連載をはじめた。
当時は利回り買いに根ざした
従来の手法による株式評論が多かった。

これに対して私は、「株を買うなら一流企業の株を買うな、
これから成長する無名の小型株を狙え」といって、
何が成長株か、具体的な例をあげながら紹介をしたので、
私の推薦した銘柄はその日のうちにストップ高をし、
それが次の週も、また次の週もくりかえし起きるようになったので、
「週刊朝日」でも「兜町に邱銘柄あり」と書かれたりした。

しかし、この光景は、文壇から見れば、
明らかに芸術家の領域からはみ出しており、
まして昔気質の文士から見れば
苦々しい行為であった。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月01日

チューインガムに消えた大富豪の夢「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは、相模原で300万円で
土地を買っていたら、今は地価だけでも
十億になっていただろうと、書かれています。

あとになって考えてみると、
香港から郵便小包を送っただけで
何千万円も儲かったのは、
偶然ににそういうチャンスにめぐりあっただけのことで、
商才のあるなしとは何の関係もない。

その証拠に、ライバルが次々と現われて、
舶来品の値段が大暴落して引き合わなくなると、
私はなす術を知らなかった。

私は東京に一千万円ほどお金を持っていたので、
東京に住んでいる姉に手紙を書いて、
東京で家を買ってくれないかと頼んだ。

相模原に適当と思われる土地が見つかった。
一万坪で坪三百円、合計して三百万円だがどうか、
と聞いてきた。

私は二つ返事で買ってくれるようにと手紙を出したが、
私の姉と義兄はそれを実行に移さなかった。
というのは姉たち夫婦は、人に頼まれて
経営不振におちいっていたチューインガムの工場を引き受け、
私が預けたお金をそちらにまわしてしまったからである。

もう十年以上も前のことであるが、あるとき、
相模原にある工場に講演に行ったことがある。
私がその昔、買おうとした相模原の土地は
このへんに違いないと思いながら、値段をきいた。
工場長は坪十万円くらいと答えた。

相模原でアメリカ人向けの住宅開発をやっていたら、
自分はどうなっただろうかと想像してみた。

たいした苦労もしないで、やすやすとお金が儲かっていたら、
私は小説家や経済評論家になっておらず、
この講演会場に講師として迎えられることにも
なっていなかったはずである。

「センセイ。お時間ですよ」とよびかけられて、
私はやっと我にかえった。

人間がどこかで曲がり角にさしかかって、
そのとき選んだ道によって違う方向に向かって
ドンドン進んでいくのはやむを得ないことなのである。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月31日

家屋敷の売買では教訓ばかりが残る「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは、香港の家は
一年遅ければ8倍で売れたと書かれています。

香港にとっては私はいわばよそ者であった。
私の側から見れば、香港は異郷である。
だから香港に住んでいて、「お嫁さんの世話をしましょう」と
申し込まれたときも、断った。

私は考えをあらためて結婚に踏みきったが、
他所へ行くときはおいていくつもりだった相手と、
何十年たった今日でもなお連れ添っているのだから、
世の中の縁というものは不思議なものというよりほかない。

他所者の私から見ると、妻でさえ他所へ行くときは
置いて行きたいと思うほどであるから、
家や土地などは動く時に持っていけない
厄介な代物にすぎなかった。

しかし、妻は土地の人だし、自分と結婚した以上、
私もこの土地に住むものと決めてかかっている。
私のような財産設計では先が思いやられると、
しきりに私に家を買うようにすすめた。

自分の家を買うと決心したとき、
英国風の閑静な住宅群の奥から
三軒目の二階建ての家を選んだ。

私が香港で家を買ったとき、
九竜のいまは高層建築の立ち並んでいるあたりは、
まだほとんどが戦前の二階建ての建物ばかりであった。

その後、経済の発展にともなって、建築ブームが起きると、
古い二階建ての家をこわして六階建てから十階建て、
さらには十六階建てのビルが立ち並ぶようになった。

香港の建蔽率は、日照権など一切問題にせず、
一律に敷地の十五倍だから、おかげでニョキニョキと
鉛筆のように細くて高いビルが次々と建つようになったが、
商売のできる表通りの土地は暴騰につぐ暴騰で、
遂に世界一の地価にはね上がった。

九竜にある私の家は、位置的には最高のところにあったが、
生憎なことに袋小路の中にあった。
もし私が袋小路の中に家を買わず、一本隣の通りか、
それとも大通りに面したところに家を買っていたら、
私の五十坪は二十億円になっていなくとも
十億円ぐらいにはなっていただろう。

家を売って一年ほどたってから、
家内と二人で香港に行った。
香港の土地はさらに暴騰を続けていた。

家内はホテルに戻ってくると、
私たちが4千万円で売った土地が三億円になったと
どこからか聞いてきた。

それをきいても、私は口惜しいとは思わなかった。
そんなことよりも、この次、土地を買うときは、
表通りの一等地にすべきだな、とつくづく思った。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月28日

二十代に荒稼ぎした金は残らない「失敗の中に ノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは、二十代に荒稼ぎした
方法について書かれています。

密輸船を送り出してから半年がアッという間に過ぎてしまった。
もう戻ってこないのではと半ばあきらめていた葵が、
再びヤミ船に乗って神戸から香港へ姿を現した。

その頃はもう財布の底が見えるほどになっていた。
夜もロクに眠れず、さんざ心細い思いをした後だけに、
葵の到来は私を狂喜させた。

葵は腹巻の中から金塊を、ズボンの裏からは米ドルを
前ポケットの中からはダイヤを取り出した。
米ドルの中から千ドルを抜き出して
私の出資した分を倍にして返してくれた。

私は葵のおともをして金の延べ棒を売り歩いた。
葵は歩く道々靴店、毛糸店に入った。
セーターやマフラーやらを買って、
私にこれを小包みにして郵便局から
東京の自分の家族に送ってくれるようにと頼んだ。

私がどうしてこんな物を送るのかと聞いたら
ここで買う値段の3倍も4倍もするんですよと葵は答えた。
どうして郵便局から送れるのかとききかえすと
救恤(きゅうじゅつ)物質といって外国の家族に
家庭用程度なら送ってもらえると答えた。

「じゃペニシリンとかストレプトマイシンでも?」
相手の説明を聞きながら、私は心の中で、
しめた、と叫んでいた。

私は密輸船に託して荷物を送ることをやめて、
郵便小包をつくり、東京に住む私の親戚宛に発送してみた。
約三週間後に、小包が無事ついた旨の返事がきた。

一年もやると、本当に月に百個も小包が送り出せるようになり、
私は月に百万円も儲かるようになっていた。
まだ東京では赤坂あたりの土地が、
坪当たり千円で買えた時分の月百万円であったから、
私はたちまちちょっとした成金気分を味わった。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月27日

東大出にもわからぬ密貿易のノウハウ「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは、言葉が通じない香港で
乞食の群れの中に埋没してしまうのではと
恐れおののいたと書かれています。

香港に行くと、東大卒など全く通用しない。
毎日のようにドッと流れ込んでくる何十万人の
難民の一人がどんな大学を出たかは、
従業員の採用の参考にだってならないのである。

香港はお金がものをいう街である。
お金を持っている人が尊敬されるし、大事にされる。
反対にお金がなかったら、、洟(はな)もひっかけてくれないし、
召使からさえもバカにされる。

当時、占領下の日本は物資不足のどん底にあえいでいた。
砂糖も薬品も欠乏し、ペニシリンのごときは
一本が一万円でとぶように売れていた。

香港は自由貿易として機能を発揮し、
アメリカからでも、ヨーロッパからでも、
いくらでも輸入できるようになった。

ペニシリンを例にとると、一本千円くらいで手に入った。
それが日本へもっていくと十倍でとぶように売れるのだから
あの手この手のルートを通じて東京に流れる。

商売の経験などまるでなかった私は、
この密輸のバクチに全財産の半分を掛けた。
あと半分はもしこの賭けに負けたときに、
辛うじて生きのびるために残しておくよりほかなかった。

密輸船は神戸についたとの手紙は届いたが
3カ月たっても4カ月たっても密輸を託したものは戻ってこなかった。
私は心配のあまりベッドに仰向けになったまま
朝まで眠れない夜を明かした。

香港は熱帯に位置しているから、
冬でもせいぜい、日本の10月くらいの温度である。
しかし昭和23年の香港の冬は、
私にとっては特別に寒さが肌身にしみる寒い冬であった。

仕事があれば、どんな仕事でもやるつもりだったが、
言葉は通じないし、学歴も役に立たなかった。
私はお先まっくらで、狭い香港に溢れている
避難民の中に埋没してしまうのではと恐れおののいた。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月26日

「台湾独立」めざす密使役に賭ける「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは、台湾独立のために
香港から国連あての請願書を書いたと、
書かれています。

私の生家は、戦前、子供たちを同時に4人も
留学にやれるだけの余裕を持っていたが、
戦後は猛烈なインフレで潰滅状態に瀕していた。

ちょうどその頃、陳儀長官の悪政に耐えかねた
台湾人たちの間で、自治を要求する声が高くなっていた。
私が台湾に帰った翌年の昭和22年2月28日に、
それを象徴する暴動事件が勃発した。

2・28事件は、あまりにも鮮烈な印象を
私の頭に刻み込んだので、私は台湾が
このまま大陸からきた政府に統治されていのでは、
台湾の人たちが浮かばれないのではないかと
確信するようになった。

私はまず請願書の作成に必要な統計数字や資料などを集め、
それをもとにして日本語で草稿を書いた。
草山温泉にある台湾銀行の寮に泊りがけで出かけ、
そこで数字を自分だけにわかる方法で手帖に書き込み、
もとの草稿は焼き捨ててしまった。

台北から直接、香港に飛んだのでは人目につくおそれもあったので、、
親の住む台南市に帰った。家に立ち寄って、
そのまま台南市の飛行場から香港へ飛んだ。

香港へ到着した私を廖文穀博士が迎えてくれた。
私は廖博士の家に引きこもって一ぺん書いて
焼き捨てて頭の中にしまい込んだ原稿をもう一度、再現した。

それを廖氏が英文に翻訳し、そのコピーを持って
駐香港アメリカ領事の家へ訪ねて行った。
アメリカ領事がその原稿にさらに手を入れて返してくれた。
それをもう一度、きれいに打ち直してから、
国連事務総長あてに発送をした。

私は任務を終えると、台北を出発した1週間後には
もう台北市に戻っていた。
何事もなかったように私は元の生活に戻っていたが、
心は落ち着かず仕事も手につかなくなっていた。

そうしたある日、いつものとおり銀行に出勤して
机の上に置かれた新聞をとってひらくと、
1ページ大の大きさで台湾省議会の黄朝琴議長が、
台湾独立運動連盟による国民投票の請願書が
来ているとの報道に対して、激しい調子の反駁文を書いていた。

それを見た途端、私は自分の頭から
血の気がサーッと引いていくのを感じた。
本能的に私は身構えた。

私は身の危険を感じて、なるべく早いうちに
台湾を離れようという気になった。
私は自分の住んでいた家を売りとばし、
飛行機に乗り込んだが、もうこれで二度と
故郷の土が踏めなくなるかもしれないと私は思った。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月25日

「風と共に去った」砂糖密輸船の悪夢「失敗の中にノウハウあり」邱永漢

邱先生はここでは、レッド・バトラーを夢見て、
新しい人生をはじめようと想ったが、
私のその夢も「風と共に」どこかに消えて
なくなっていた、と書かれています。

人は失敗することをおそれる。
失敗すると、もう二度と再起できない
のではないかという場合は、
もちろん、失敗しまいと身構えるが、
いくら失敗をしても致命的にならない場合でも、
やっぱり失敗しまいとする。

しかし、もし失敗することがなければ、
恐らくその人は成功の岸に辿りつくこともなく
一生を終わることになるだろう。

最初から成功でスタートを飾った人生は、
心が驕って細心の注意を怠り、
思わぬ障害にぶつかったりするが、
失敗をしでかすと、その度に失敗に教えられて
同じ失敗をくりかえさないようになる。

私が最初に経験した失敗は、
たぶん24歳のときに私が香港に亡命する
きっかけとなったいくつかの賭けに
敗れた時ではないかと思う。

物資不足で苦しんでいた日本内地では、
台湾からの輸送が長く途絶えていたので、
砂糖不足が深刻だった。

一方、台湾では砂糖が山積みにされ、
岸壁や製糖会社の倉庫からあふれて、
砂糖一斤の値段が野菜一斤の値段より
安いという奇現象が現に起こっていた。

私の学友の兄貴で貿易をやっているのがいて、
砂糖船を日本へ出すことになり、
出資者をつのっているという話をきかされた。

砂糖船を出すといっても、もちろん、
正式の貿易が行われているわけではないから、蜜貿である。
魚取に出るようなフリをして、漁船に砂糖を積み込み、
そのまま日本へ行ってしまうのである。

私は小さなトランクを一つ持って
台北から列車に乗り込んで現場に行き、
日が暮れるのを待っていたが、
真夜中になると、船が沖合に姿を現わした。

漁村では部落中のものが総出で砂糖を
小船に乗せて沖まで運びはじめたが、
突然、気象に変化が起こり、大波が押し寄せてきた。

荷積みもなかなかはかどらなかったのに、
大波のために船の舵がこわれて故障を起こしたので、
船はそのまま座礁してしまった。

朝が明けてくると、警察もやってくれば、
沿岸警備の兵隊も押しかけてくる。
捕まったら、砂糖が没収されるだけでなく、
人間まで逮捕されかねないから、
私と友人はあたふたと逃げ出して
夜明けの汽車にとびのった。

その頃、私はお嫁さんにもらいたいと思っていた人があった。
私は自分が砂糖船で成功したら、
レッド・バトラーのように堂々と胸を張って
会いに行くつもりでいたが、
あれこもれもみんな夢のまた夢となってしまったのである。
posted by 素朴な自由人 at 00:00 | Comment(0) | 邱先生の思想研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする